フィリピンの貧困問題?
ずーっと、フィリピンのスラム街の貧困問題に取り組みたいと思ってきた。
でも、スモーキーマウンテンの人たちの生活がなんとなくわかってきて、私が解決したい問題が何だったのかわからなくなった。
教育を受けたくても受けられない子どもがいると思っていた。
実際はほとんどの子どもが教育を受けることができている。
じゃあ、彼らがこれから教育を受けられなくなる理由は何か?
結婚・妊娠によって教育をストップする選択をしてしまうこと。
彼らにとって、これが苦しい選択なのだろうか?別に、教育を受けることができなくたっていいって思ってるんじゃない?
通訳してくれた人が言っていた。「結婚しても、妊娠しても、学校に通い続けることはできるよ。彼らはそうしてないだけ。」
家庭崩壊により経済的に学用品や制服・交通費を買うことができずに学校に行けなくなること。
家庭崩壊。父親が亡くなってしまったり、アルコール依存で暴力を振るわれてしまったり。学校をやめた理由を聞いたのはそんなに多い数ではなかったけれど、ほとんどが家庭崩壊か妊娠と答えた。
現地の人たちは働いていない母親がとても多い。その理由は育児だった。
そして、はっきりと言葉には出していなかったけれど、旦那さんが働くことができていて、収入源がある程度担保されていることも、彼女たちが働いていない理由だった。
実は、ここの違和感が私の中で大きかった。
ぬるい。「旦那さんが働くことができているから、私は働かない」という選択肢ができるなら、収入が原因で子どもに教育を受けさせられないと嘆くな。
彼らの未来には、どこか諦めが入っていた。彼らはその未来に対して努力を惜しんでいた。それが1番の違和感だった。
私が対象としたいのは、やれることだけやる努力をして、でも自分じゃどうしようもできなくて、苦しんでいる人だ。
間違えていた。
私は、貧困問題に対して、社会問題に対して、捉え方を間違えていた。
貧困問題を抱えている人の、貧困問題という大きな課題を解決したいと思うのではなく、彼らの本当の痛み・本当に苦しいこと・解決しようとしても努力してもどうしようもならないこと、それらの末端を解決して初めて貧困問題を大きな枠組みで捉えられるんだと気づいた。
こんなの当たり前だけど、私は切羽詰まって、問題をミクロでしか捉えられなくなっていた。
1番の敵は自分だった。自分を理解していない自分だった。
まだそのレベルだったか、と自分に心底絶望した。だけど、まだやれる。
2度目のフィリピン滞在。確実に前回より成長した。
前回も、今までの人生で1番しんどいって心の底から思ったけど、1カ月後の今回でもっと苦しい時間を過ごした。
自分の壁を乗り越えることも大事だけど、対象者となる人たちと社会問題となる壁を越えていくことの方が大事だ。
まだまだ、始まったばかり。