「嫌われ者の自覚」
思春期以降にもなれば、嫌われた経験がない人はほぼいないだろう。
誰しも誰かを嫌いになり、誰かに嫌われてきた。
誰かを嫌うことは悪い事ではないし、そもそも誰かを嫌いになることは不可避なので、嫌われることもまた避けようがない。
僕たちは家族・友人・仕事や学校などあらゆるコミュニティに属して、他者と関りながら生きている。
全ての環境で良好な人間関係を築くことは残念ながらそれは不可能に近いけれど、不必要なトラブルは避けた方が絶対に良い。
所属している全てのコミュニティで良好な関係を築けているわけではないが、僕は今までの(短い)人生の中で人間関係のポイントをいくつか見つけた。
その一つが、タイトルにもある「嫌われている自覚」だ。
これを持ったことがあるか・そこから何を考えたかが、その後の人間関係力の力の一つに成り得ると僕は考えている。
私自身、「嫌われている自覚」を持ったことがある。
この記事ではその「嫌われている自覚」を持った時のことを思い出しながら、人間関係について少し考えていこうかなと思う。
(見出しだけで伝えたいことは伝わるようにしているので、長いなと思ったら見出しを眺めてもらえたら十分です)
嫌われ者には嫌われる理由がある
深く考えたくないから「なんとなく嫌い・相性が悪い」という言葉で片付けている。
さてこのことから導き出される結論は、「もしあなたが誰かに嫌われているのなら、あなたに嫌われる理由がある」ということだ。
だけどあなたにも嫌いな人は少なくとも何人かはいるはずだ。
僕にも当然いる。
誰かを嫌いに思うことは自然なことだ。
さて、ここで一度嫌われている(かもしれない)自分を棚に上げて、嫌いな人のことを考えてみたい。
「嫌われる人の特徴」と検索して一番最初に出て来たサイト(https://hataractive.jp/useful/1808/)を参考にすると、
〇自己中心的
〇上から目線
〇何事も否定から入る
〇すぐ感情的になる
〇「ありがとう」と「ごめんなさい」を言わない
以上が嫌われる人の特徴に当てはまるらしい。確かにこれは嫌われてもしょうがないと思ってしまう。
そして棚に上げた「嫌われている(かもしれない)自分」を棚から降ろすと、自分が嫌われている・嫌われていたことにも理由があったと素直に認めることができる。これがタイトルの「嫌われ者の自覚」である。
※嫌う側が逆恨みや意味不明な嫌い方をしてくるという稀なパターンは今回考えないことにします。
私の「嫌われている自覚」を持った時の話
偉そうにこんな記事を書いている僕にも、「嫌われている自覚」を持ったことがある。
最初に持ったのは小学校5、6年生の時だ。ずっと仲良くしていた友達グループの中で、少しずつ不快なイジリが増え、ハブられるようになり始めた。
ずっと忘れていたけれど、そういえばひどいときは遊びに行きたくなくて泣いたりもしていた。(一緒に遊ぶのが習慣になっていた)
中学校も公立なので一緒だったが、中学生になるタイミングでお互い関わらないようになっていった。そのグループから私一人だけ離れる形になったので、周りから見ても僕がハブられたのは丸わかりだった。
そんな僕と仲良くしてくれる友達がいたおかげで、中学時代を楽しく過ごせた。今でも本当に感謝している。
中学生の時は「嫌われた自分は被害者で、嫌った彼らは加害者だ」みたいな思考を持っていたが、高校生になって心の余裕が出来て振り返ってみるとその考えが変わった。
当時の自分がコミュニティの中で好ましくない言動をしていたことを自覚したからだ。
本当は言いたくないけれど、当時は小学生で人間関係力が未熟だったということで許してもらうかわりに書こう。
当時の僕の当時の悪かった所は
〇会話の主語を自分にしたがっていた
〇コミュニティ内で特定の人に媚びていた
〇人の気持ちを考えない発言をしていた
〇プライドが高すぎてすぐ意地を張っていた
〇冗談が通じない・言えない人間だった
まあ今からしたらそりゃ和を乱して避けられるよなと思っちゃうな。
陰口なのかは分からないけれど、僕が抜けたグループの一人が「あいつは仲良くなるのつれて性格が悪くなっていった」という話をしていたらしい。
当時はだいぶ傷ついたけれど、客観的に見たら確かにそう言われても仕方がなかった気がする。
僕は高校生の時にこのことに気付けたおかげで、高校の人間関係は結構良好だったように思う。
「嫌われている自分」を直視するのは簡単ではなかったけれど、それが今に繋がっている。
嫌われている自覚を元に、自分の欠点を見つめる
「嫌われている自覚」が人間関係力のポイントの一つだと僕が考える理由は、それがあって初めて自分の欠点を見つめて改善するきっかけになるからだ。
自分の欠点を直視するのは怖くて難しいことだけれど、「嫌われている自覚」によって直視することができるようになる。
こんなことを書いているけれど、深く重く考える必要は無いと僕は思う。
「あれ?なんか嫌われてる?」
↓
「何か悪いことしたかな?嫌われる言動をしているのかな?」
↓
「これが理由だから、こういうことを気を付けよう」
それだけで十分だし、もし改善しようが無いものだったり嫌う側に問題がある時は堂々としていればいい。
嫌われる理由が分からなかったら誰かに聞くか、よくある嫌われる理由のどれかに当てはまっていないか考えるか、気にしないまま今まで通り過ごすのでもいい。
ただそれだけのお話。
誰でも嫌われる。嫌われることが悪いわけではない
嫌われている自覚・嫌われていた自覚を持っている方に伝えたいのは、「誰でも嫌われる。嫌われることが悪いわけではない。」ということ。
食べ物に好き嫌いがあるように、人間関係も好き嫌いがあるし、悪いことをしていなくても嫌われることは普通にある。
嫌いになることも嫌われることも人間の自然な感情による営みであり、嫌われたからと言って一人の人間のすべてが否定されるわけでは決してない。
問題なのは、嫌う側が「嫌いだから攻撃対象にしていい」と勘違いすること。
これだけは絶対にあってはいけない。
不必要に嫌われる機会を減らせば、人間関係がよくなる
私は小学5,6年生~中学生の時に「嫌われている自覚」を持ち、後に自分の悪かった所を見つめることができた。それを改善できたわけではないけれど、ある程度気を付けることはできて比較的良好な人間関係を築くことができた。
良好な人間関係は幸福度に大きく影響を与える。
嫌われることは悪いことではないけれど、不必要に嫌われるのはもったいない。
環境を変えてもいつも嫌われてしまうならば、もしかしたら良く思われない何かがあるのかもしれない。少しずつでいいから、それを変えていけば、次は環境に気持ちよく馴染めるかも。
嫌われないことを意識し過ぎないことも大切
「嫌われているならばそこには理由があり、それを直すことが大事」
そういう趣旨の記事を書いているけれど、嫌われないことを意識し過ぎるのもまた問題になってしまう。
理由としては
〇自分が悪いわけではないけれど、相手がそれを好意的に思わないパターンがあるから
〇どうしようもないパターンがあるから
〇相手(嫌う側)に問題があるパターンがあるから
〇嫌われても貫くべきパターンがあるから
〇完璧になれるわけでも、誰にも嫌われずに生きれるわけでもないから
といったものが挙げられる。
嫌われている自覚を持って、それを直す努力をするのは、心に余裕があって、自分の非を認めれるときでいい。かつての僕がそうであったように。
まとめ
今日は「嫌われ者の自覚」というタイトルで、「嫌われることにも理由があり、それを直すと良好な人間関係を築きやすくなる。だけど、誰でも嫌いに思う人はいて、無理して嫌われないように窮屈に生きる必要はない」という感じのことを書きました。
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今日の記事はここまでです。
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