King Gnu『白日』と自殺とニーチェ
ちょっと衝撃的なタイトルをに思われるかもしれないですが、今回は誰もが一度は聞いたことがあるであろうKing Gnuさんの『白日』について。
この曲自体は有名なのもあって前から好きで歌ったりしていて、映像も音も、曲の進行から何まで「あぁ美しいな」と思っていたんですが、
改めて歌詞の背景を考えて聞くと、哀しく、切なく、やるせなく、それでいてあまりにも美しいので思わず咽び泣くように衝動で書いています。
(なので情報の正確さとかそんなことは一切保証しませんがご査収ください。)
『白日』という曲のできた背景
白日はリーダーの常田が友人2人を亡くしてしまい、個人的な想いで作った曲なのだといいます。
Instagramにはこんな投稿がされていました。
ネットの記事にもその時のことが少し書いてありました。
“白日” MV公開しました.
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去年は地元の友人が2人も立て続けに亡くなったりして生と死を強く意識した年になりました.最近の自分の作詞作曲にはその出来事の影響が強くあります. ずっと避けていた墓参りに行こうと思えたのはこの曲のお陰かもしれません.
(↓ instagramの投稿より)
きっと自ら命を絶ってしまったのであろう。
ご友人を亡くされたということを聞いたうえで改めて曲を聴いて真っ先に思ったことは、
「あぁ、おそらくご友人は自ら命を絶たれたのだろう。」
ということ。
亡くしてしまった大切な友が発していたかもしれない自死の兆候と、
それに気づくことが出来なかった私。
あの日、あの時、あの場所で。
ああしていれば、あれに気が付いていれば。
どんなに悔やんでも、生まれ変わったとしても、
決して離れることが出来ない残酷な現実。
けれどもどうしようもない後悔を胸に前に進んで行くしかないのだ、と。
でも、それでも真っ白な雪の降りしきる今だけは、今日だけは、
少しだけそのことから目を背けさせておくれよ。。。
きっとこういうことなのではないか、と。
大学生の頃に後輩が自殺をしてしまったときのこと、深夜に倒れている祖母に気が付くことができずそのまま亡くなってしまった時の母の後悔し続ける様。
その時の自分のこと、周りのことはとてもよく覚えています。
白日の歌詞はその時のことと非常に重なるものがあります。
知り合いで読んでくれている人がいて気を悪くされていたらごめんなさい。
この曲が本当は何を書いた曲なのか、さらに言えば歌詞に書いた事や曲で表現されていること以上の何かは常田さんご本人にしか分からない、もしくは本人ですら分からない事なのかもしれませんが、少なくとも私には上に書いたような印象や情景として見えたし、
哀しい記憶だったとしても、自分の中でまだ鮮明にそこにあるということは喜ばしいことでもあって、"人間"というものを実感するものです。
永劫回帰と運命を受け入れ、愛すること
飛躍があるかもしれないけれど、この一連のことを考えて書いていて、冷静になってきて、ふと、かの有名な哲学者のニーチェの過去と『永劫回帰』、『運命愛』が思い出されたので少しだけ触れてみます。
ニーチェといえば「神は死んだ」なんて言葉が有名だと思いますが、彼は様々な思想を説きながら、失意のどん底に沈み、そして時に恋に破れて自殺することを考えながらも、どんなに最悪なことであっても、ひと時の喜びを愛し、受け入れ、この人生を何度でも繰り返そう、ということに思い至り、のちの人々の思想に大きな影響を与えた人物です。
永劫回帰、というのは「同じ人生が何度でも、永遠に繰り返されること」、運命愛、というのは永劫回帰する運命を愛すること。
そしてこの永劫回帰する運命を愛し、何度でもその運命を欲し、生の喜びを極限まで体現して生きる『超人』に至る、というようなことがニーチェの思想であると私は理解しています。
生の高揚、生の喜び、魂の咆哮
このあたりで白日の話に少し戻ると、ニーチェという人は難しい哲学者のイメージとは少し違って、「生きることの高揚」のようなもの、いうなればRockの精神に近いものを持った人物であったようで、この「生の高揚」というのが、King Gnuのボーカルの井口の2番のサビの終わり、Cメロ前の
「すべてを忘れさせて くれよ」
という部分の仰け反りながら叫びに近い形で歌っている部分のイメージと重なります。
歌詞的には「生の高揚」という感じではないですが、想いや感情が音楽として昇華されているという点で高揚、高まりであると思うのです。
歌詞を見てみる
いよいよもって話に結論はないし向かう先もよく分からなくなってきたので、上の色々な考えを胸に歌詞を見てみようと思います。
時には誰かを
知らず知らずのうちに
傷つけてしまったり
失ったりして初めて
犯した罪を知る
もしかしたら知らないうちに誰かを傷つけるようなことをしてしまったのかもしれない。
その誰かを失って初めて、傷つけてしまったのかもしれない、ということに思い至る。
戻れないよ、昔のようには
煌めいて見えたとしても
明日へと歩き出さなきゃ
雪が降り頻ろうともㅤ
自分たちがバンドとして世に認められ、輝かしいものに見えたとしても、かつて一緒に過ごした日々にはもう戻ることはできない。
たとえ雪が降りしきる中でも、前へ進まなくてはならない。
今の僕には
何ができるの?
何になれるの?
誰かのために生きるなら
正しいことばかり
言ってらんないよな
どこかの街で
また出逢えたら
僕の名前を
覚えていますか?
その頃にはきっと
春風が吹くだろう
もしもまたどこかで会うことが出来たとして、あなたはこんな私のことを覚えていますか?
雪の解けた春には、きっと春のすこし明るい風が吹くだろう。
真っ新に生まれ変わって
人生一から始めようが
へばりついて離れない
地続きの今を歩いているんだ
もしも生まれ変わって、人生を一から始めたとしても、
逃れることのできないこの現実と一続きの”今”を生きてゆくのだ。
真っ白に全てさよなら
降りしきる雪よ
全てを包み込んでくれ
今日だけは
全てを隠してくれ
降りしきる雪よ、
今日だけはこんな現実を包み込んで、隠しておくれ
もう戻れないよ、昔のようには
羨んでしまったとしても
明日へと歩き出さなきゃ
雪が降り頻ろうとも
いつものように笑ってたんだ
分かり合えると思ってたんだ
曖昧なサインを見落として
途方のない間違い探し
いつもみたいに笑っていた。
もしかしたらいい争いをして、それが最後の言葉になってしまったのかもしれない。
発していたかもしれない兆候。
どこで、どうしていればこんなことにならなかったのだろうか。
延々と己を攻め、悔いることを続ける。
季節を越えて
また出逢えたら
君の名前を
呼んでもいいかな
その頃にはきっと
春風が吹くだろう
後悔と自責の念と。
名前を呼んでも、あなたは許してくれますか。
真っ新に生まれ変わって
人生一から始めようが
首の皮一枚繋がった
如何しようも無い今を
生きていくんだ
”罪”を犯して大切なものを亡くしても尚、
どうすることもできない今を生きてゆく。
真っ白に全てさよなら
降りしきる雪よ
今だけはこの心を凍らせてくれ
全てを忘れさせてくれよ
朝目覚めたら
どっかの誰かに
なってやしないかな
なれやしないよな
聞き流してくれ
忙しない日常の中で
歳だけを重ねた
その向こう側に
待ち受けるのは
天国か地獄か
いつだって人は鈍感だもの
わかりゃしないんだ肚の中
それでも愛し愛され
生きて行くのが定めと知って
後悔ばかりの人生だ
取り返しのつかない過ちの
一つや二つくらい
誰にでもあるよな
そんなんもんだろう
うんざりするよ
真っ新に生まれ変わって
人生一から始めようが
へばりついて離れない
地続きの今を歩いて行くんだ
真っ白に全てさようなら
降りしきる雪よ
全てを包み込んでくれ
今日だけは
全てを隠してくれ
さいごに
ここまで読んでから改めて曲を聴くと、少し違った聴こえ方になるかもしれないし、ならないかもしれない。
ニーチェの著書『ツァラトゥストラ』の副題、「Ein Buch für Alle und Keinen」≒ 「万人に与える書,なんぴとにも与えぬ書」のように。
皆さんにはこの曲はどのように聴こえますか?
(header photo : Ryo Ishigami)