ぎりぎりな自分が許せないわたしへ
わたしは、メールなどの返信がスピーディーな人や、締め切りに余裕をもって提出物を出す人へ対する憧れがある。
何故ならわたしは大体ぎりぎりだからである。
24時間営業の郵便局の近くに住んでいた時は、当日消印有効の郵便物を23:30過ぎに駆け足で出しに行き、「これって今日の消印になりますかっっ」と窓口の人に念押しして、さらに局員さんが当日の消印を押したのをそっと確認したうえで、「あぁ、今回も何とか間に合った…でも次回は余裕をもって取り組もう」とほっと胸をなでおろして帰路につく、ということをよくしていた。
このぎりぎりは小さい時からずっと続いている。
三つ子の魂百まで、とはよく言ったもんだなと思う。
小学生の頃は、「【夏休み】は【休み】なんだから、休まないとねっ」と、ほとんど宿題をすることなく、漫画を描いたりゲームをやったり、アイスを食べたりとだらだら過ごし、最後の1~2日でガーーーーっと宿題をこなす×6年であった。
中学生になったわたしは、相も変わらずそのパターンで乗り越えようとした結果、痛い目を見ることになる。
中学校の宿題は小学校以上に量も内容も多くてなかなか終わらない。
主要教科で出ていた宿題ドリルは、途中から普通に取り組んでいたら間に合わないことを悟り、答えを写経することにした。それでも終わりが見えず、ところどころ1ページぬかし、先生にそのことを指摘されたら「あっ見逃してました~いっけねぇ~~」と言い訳をしようと腹をくくった。
そして、ドリルを無理やり片づけた後に、地味に時間がかかったのが家庭科の宿題の布巾への刺繍だ。簡単でしょと思っていたら、これが案外ちまちましていて時間がかかる。
大量のドリルの丸写しによって、手も疲れて痛い。手を痛めた理由がドリルの丸写しというのは何とも情けない。
終わりが見えない焦燥感とともにカーテンの外がだんだんと明るくなっていく。
それまで徹夜というものをしたことのなかったわたしは、夜と朝が本当につながっていたことを知り、大人になってしまったような気がして少しさみしかった。
あまり知りたくなかったと思った。ずっと子どもでいたいと思った。
子どもと大人のはざまのわたしは、夜と朝のはざまでそんなことを考えながら、あぁ、寝たいよう…と泣きたい気持ちをこらえて宿題をしていた。
そんなこんなでギリギリによって痛い目をみているものの、なんだかんだでこれまでの人生どうにかなっているからか、残念ながらそれが改善することなく、現在に至る。
仕事が早い人への憧れがあると同時に、仕事が遅い、ぎりぎりマスターの自分への許容がないことにも気がつく。
ぎりぎりになることによって、精神的に追い詰められたり、自己嫌悪にもなる。
ただよくよく考えれば、なんだかんだ間に合っていることも多いし、結果だけ見れば問題ない。
どこかで仕事が早い自分になることをあきらめたくない自分がいるから、自己嫌悪を感じるんだと思う。
仕事が早い人は仕事ができる、と思っているから、仕事の遅い自分は仕事ができない、と感じてへこむ。
そうやって、「また今回もぎりぎりになってしまった」「何回おんなじことをやっているんだろう…」といつも一人反省会をする私を見たパートナーは、
「どうせぎりぎりになって、そしてちゃんとやるんだからそれでいいやん」
と言った。
ぎりぎり=よくない、と思っていたわたしには目から鱗な言葉だった。
【ぎりぎり】でも【はやはや】(ぎりぎりの対義語が思い浮かばなかったので勝手に作った)でも、出したい結果が出せていればよいのか…!
言われて心がふっと軽くなった。
でも人間というのはすぐに忘れるもので、ふとした時に「あぁ、またぎりぎりになってもうたぁぁ~~~」と落ち込む。そして自分の謎のプライドが傷ついてへこむことがしばしばある。
だから、今日はここで言葉する。
わたしは、自分がぎりぎりになってしまうことを諦める。
ぎりぎりでも、出したい結果を出していく。
ただし、人に迷惑をかけない程度のぎりぎりで。もし、迷惑をかけたときは心の底からごめんなさいをしっかり伝える。
あまりかっこいい宣言ではないけれど。
ま、こんな人もいていいでしょう。
溜まっているやらないといけないこと、やりたいけれどやれていないことの皆さん、多分ぎりぎりに取り組みますんで、もう少々お待ちくださいませ。