ある男
真昼間に男が1人、一畳半のベランダで室外機に身体を預けながら煙草を吸っていた。この時代に似つかわしく無い甚平を身に纏い、項垂れながら吐き出した煙はまるで生気をそのまま吐き出しているかの様相である。誰かが煙草を吸い続ける事を緩やかな自殺と言ったが、それは単純に健康面での自身の寿命を縮めるという意味合いを持っていたのに対し、その男が煙を吐き出す様は、どちらかと言えば今まさに魂を吐き出して死に近付こうとしているという何とも超自然的な現象に近かった。火種が近くなるにつれて煙で目を刺されない様に瞼を閉じる頻度が増える。それもまた、死に近付く隠喩に見えた。
「今日は誰とも喋る事なく1日を終えてしまうのか。」
ベランダから戻りソファに横たわってそう呟いた男は、自分の寂しさを紛らわす為に、手に携えた情報の塊を虚な目で流し見ていた。1人であればある程、自身の心象的な温度が冷めていく様に感じる。情報に触れて何とか自分以外の生きている人間の生の時間を感じ取る事で、その温度を疑似的に上げられる様に努力した。季節が変わりその日その日の気温が寒くなるにつれて、その外気に触れている自身の身体に呼応して心が寒くなる。寒くなった心は段々と凍りつき、簡単な衝撃で割れてしまうのだ。
気がつくと日が暮れていた。時間泥棒である情報端末を放り投げて遅めの飯を食い始めた。とりあえず炊いた米に目玉焼きを乗せたものをモソモソと口に入れる。味は感じても美味しいとは思えない。ただ塩気の効いた何かを食っている。ただ空腹を紛らわす為の儀式を執り行っている。部屋の中にはその男しかいないので、贄を貪る堕神さながらにただ無表情で何かを嚥下した。
灰皿を片手にまたベランダへ出て、煙草を吸い始めた。基本的に体を動かしたく無いものの、煙草を吸う時だけは思っている以上にきびきびと身体を動かせるのは、煙草を吸う時に何が必要かをよく分かっているからだ。ベランダに出る為のサンダル、灰皿、煙草、そして火をつける為のマッチ。それらを家の中からさっと集め、辺りが真っ暗になったベランダへ出ていった。
男が予言した通り、今日一日中誰とも喋らずに終わった。昔は誰とも喋らずとも、自身の心に冷たい風が吹いている事も気が付かない程に娯楽に熱中できていた。最近はどうも、その寒い部分が何らかの形で浮き彫りになっていて、それがどうしても気になり、娯楽に熱中する事が叶わない。
「人は1人では生きられない」という言葉は、社会をたった1人の人間のみで上手く回す事は出来ないという事を言ったものだが、その男が考えるには、自身の“寂しい”という気持ちを紛らわして私を生かしてくれるものは、その男以外の誰かがこの世界でちゃんと生きているという証拠であるから、男は世俗的な意味ではなく、また違った意味でその言葉を解釈していた。1人の時間が多くなればなる程、この世界には自分1人しかいないのではないかという錯覚に落ちてしまう。ただこの寂しさを根本的に解決する方法として、その男は誰かとの対話を良い薬に見立てて喉から手が出るほど欲しがっていた。
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