「牡蠣にあたったようだ」と妻は言った。

★つわりは人によって程度や内容が全然違うし、日頃の体力などとも関係がなさそうだ、という話。


 妻との旅行で生牡蠣とビールをいただいた日の夜、妻は猛烈な吐き気に襲われて身動きが取れなくなった。せっかくの露天風呂に入ろうともせず、早々に寝てしまった。そして翌日、まだ数日の旅程が残されていたにも関わらず、家に帰りたい、と言い出した。原因は不明である。「牡蠣にあたったのかもしれない」と妻は言うが、私はそうではないと思っていた。大抵、食中毒などお腹のトラブルは私のほうが頻発していたので、もし牡蠣が原因ならば、先に私が倒れるべきだ、という自信があったからだ。それを自信と呼んでいいのであれば。
 妻はあまりにも体調が悪く、帰りの新幹線をホームで待つことすらできなかったため、急病人のための休憩室で新幹線が来るまでの間、眠らせてもらうほどだった。
 這うように帰宅した日の翌日、近所の内科にふたりで行こうとするも、歩くことすらままならない。手を引いて歩こうにも、先に行っていてくれ、と言われてしまう。とりあえず私が受付を済ませておこうと病院へ走る間、私は妻が何か大きな病気にかかったのだと思いこんでいた。
 妻は、人並外れて体力がある。ともにフルマラソンはおろか、ウルトラマラソンすら完走した経験がある。走り終えたあと、体力を使い果たした私は発熱と嘔吐に苦しんだが、妻は涼しい顔でビールを呑んでいた。その妻が、今、歩くことすら困難な状態になっている。牡蠣にあたったにしては、下痢はない。一体、何の病気なのだろう。
 なんとか診察を終えたが、思い当たる節が牡蠣しかない妻は牡蠣にあたったのかもしれないと言うほかなく、それを聞いた医師も食中毒のための薬を出すしかなかった。

 しかし、数日休んだあと、会社帰りの私に、妻は思いがけない言葉を発してきた。「妊娠していました」。


 私には、この体調不良と妊娠という事実がつながらず、何を言っているのかよくわからなかった。それは妻も同じだったようで、妊娠検査薬の説明書と実物を片手に「この窓とこの窓の両方に線があるってことは陽性ということだよね? 陽性ってのは妊娠しているということだよね?」というようなことを語り続けていた。
 これは妊娠なのか、と思った。それではこれがつわりというヤツなのか、と思った。私は妊娠という事実を喜ぶよりも、妻の体調不良がやっかいな病気でないらしいことに安堵した。それにしても、これがつわりか。つわりなんて、ドラマか何かで見るような、一度吐いて終わるような、妊娠のしるしみたいなもので、こんなにも継続的な体調不良のことを指すものではないと思っていた。しかし、調べてみるとつわりというのはなかなかにやっかいなようだ。吐くだけでなく、眠気が強くなったり、食欲が増したり、イライラしたり、様々なパターンがあるようだ。
 さらにやっかいなことに、何もない、という人もいるらしい。妻ほどに苦しむ人がいる一方で、何もない人もいる。同じ「妊娠」を経験しても、そこに「つわり」という共通言語がない。このことは、妊婦同士を大きく分断することなのではないか、と思う。

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