親の役割は子どもの友人になることなのか?
子どもが小学一年生のころ、お世話になった保育園で秋祭りが開催され、卒園生もお邪魔できる運びとなった。我が子とは別の小学校に進んだ、保育園当時の友人とも再会できた。
その友人を仮にAとする。
Aは昔から、よく言えばのびのびと大らかに、悪く言えば放任主義的に育てられた子で、率直に言ってその親子ともども私は苦手だった。
たとえば交通ルールを守らない。保育園の門から左右を確認することもなく全速力で飛び出してしまう。Aが飛び出ることで、その他の、多くの場合はより年下の友人も続けて飛び出てしまう。私は何度も何度も注意を続けたが、結局改善されることはなかった。我が子には帰宅後も話した。「今日たまたまAは轢かれなかったが明日はどうだかわからない。轢かれる人は『轢かれるかもしれない』などと思っていないときに轢かれる。お前も気をつけなさい。Aが行こうが青信号だろうが相手が悪かろうが、轢かれて怪我をするのは自分だ。治るような怪我はたくさんしていいが、治らない怪我もある。怪我をさせてしまうこともある。たった一度で人生を棒に振る。走りたい気持ちを否定はしないが、走りたいならば園庭や公園でやりなさい。道路は公共の場だ」と。難しい話なのかもしれないけれど、保育士であればもっと簡潔におもしろく効果的に伝えられるのかもしれないけれど、なんの技術もない私だって子どもが道路も自分で歩けるようになってからくり返しくり返しくり返しくり返し説明すれば、子どもにも必ず届く。それはなぜか? 私がこの件に真剣だからだと思う。真剣に、子どもを守りたいと思っている。そのことが伝わるのだと思う。
Aは駐車中の他人の車を叩いたり、きれいに整えられた花壇の花をちぎったり、他人の家の門をゆすったりすることもあった。そのたびに、Aの親ではなく私が注意をしていた。そのたびに、Aが私に向ける視線は「うるせえな」であった。
いや、Aの親も注意をしていたのかもしれない。ただ、それは「こらこらよしなさい」の温度感でしかないように見えた。たとえば家のなかで走るならば「こらこらよしなさい」でいいかもしれない。しかし車が通る道で交通ルールを守らないで走ったときに、その温度感でいいのだろうか? 感情をむき出しにしてでも止めてあげることが親の務めなのではなかろうか? 重大な事故につながる行為を目撃しているのに、注意してあげないことはかわいそうではないか? 現にAは何度か車に急ブレーキを踏まれている。
Aの親はむしろ、Aが花壇の花をちぎるときに、一緒になってちぎるようなところがある。Aが触りたい木の実が手の届かないところにあれば、抱っこして届かせてあげるようなところがある。その結果として踏まれた花やちぎられた枝を見てきた。果たしてこれは「のびのびと」だったり「大らかに」だったりの範疇なのだろうか? 交通ルールのことよりはグレーなところなのかもしれない。ただ、私はきれいに管理された花壇に踏み入る行為は、子どもがしたがることは理解できるが、少なくとも親がサポートすることではないと思う。もし仮に、このようなことで親がサポートできることがあるとすれば、たとえば次の週末に植物園に連れて行くだとか、家庭菜園を始めるだとか、そういうことだと思う。そういうことを「のびのびと」とか「大らかに」とか「個性を伸ばして」とかいうのであって、ルールやマナーを守らないこととはまるで違う。
私はA親子の、この線を引かないこと、あるいは引く位置が私とまるで違うことが苦手で仕方なかった。
久々のAは、やはりルールを守れなかった。道路に何度も飛び出し、秋祭りの出店の順番も横入りしていた。私が、我が子のために並んでいると、当たり前のようにAが横入りしてくる。
たったこれだけのことで、私はとても悩んでしまう。
子どもばかりの秋祭りで、順番を守れない子など、腐るほどいるだろう。堅苦しく注意して、楽しい思い出を壊すのも違うかもしれない。でも、地域の行事は社会性を学ぶ場でもあるはずで、社会性という抽象的な言葉は「順番を守る」といった具体的なことに表れるのではないだろうか。そうであれば、Aの行いを、大人である私がやはり注意すべきだろうか。ただ、我が子にとってAは大切な友人のひとりで、私がAに干渉することでAと我が子の関係性にも影響があるかもしれない。我が身を振り返っても、友人関係とは正しさだけでできているものではない。大人から見た悪をもまといながら、子どもは絆を深めていく。そこに私が干渉する権利はあるのだろうか。
こんなことをうじうじと考えてしまう。
Aの親は何をしているかというと、見ていない。自分が楽しみたい出店に、ひとりでいる。Aの親に「Aは並んでいなかったですよ」とは言えない距離だ。私だけが、Aのことで悩んでいる。
こう考えてみた。
もし、Aが我が子だったらどうするか? それならば当然、注意する。ルールを守ることは当たり前だからだ。ルールがあるから、秋祭りがあるのだ。守れなければ、この楽しいイベントはいずれ開催されなくなるのだ。
それを思ったとき、やはり私はAに注意しようと思った。ただ、最大限譲歩して、出店のゲームが終わったあとにすることにした。抜かされた人々には申し訳ない面もあるが、せっかくの秋祭り、長蛇の列を並び直させることはAの負担も大きいような気がして、かわいそうに思えてしまったからだ。我が子であれば並び直させるが、他人の子ならば私もそこまで真剣になれない。面倒くさい。ここが落としどころ。
ゲームが終わったあとで「A、あなたは並んでいなかったよね? 次からちゃんと並ぶんだよ」と言った。我が子であれば「はい」で済むところだったが、さすがはA、返事は「えー別にいいじゃん」だった。とっさに「別によくないよ? 自分が抜かされたらどう思う?」と言うと「おれは別に構わない」。
そうか。Aは「構わない」のか。実際、「構わない」のだろう。Aは自宅の壁に落書きをしても許されるような乳児期を過ごしていた。様々な教育方針があるが、私は、壁は違うと思う。「ここ(画用紙、ノートなど)ならいくら描いてもいいよ」とルールを設けられていた我が子とは感覚が違うのだろう。順番抜かしをされようが、自分が育てた花を摘まれようが、あるいは実際に車に轢かれようが「自分だったら構わない」と思っている人に、何か伝えられることはあるのだろうか? 「いやな人もいるんだよ?」と言ったところで伝わらないだろう。だって、いやな人などいないのかもしれない。「子どもがやることなんだから大目に見てよ」という人ばかりで、気になっているのは私だけなのかもしれない。
意を決して注意をした結果、返ってもやもやばかりが残ってしまった。まるで自分が小さい人間だと言われたような感覚だった。
実際、私は小さい人間なのだろう。
ルールを守らないような人が「昔はやんちゃでした」と言って大成していく。怖いもの知らずで突っ走る人が時代をつくっていく。私が永年平社員なのは「守り」ばかりで「攻め」ないからだ。そんなことを思うと、私の存在が我が子を小さくしていっていくような感覚にも襲われる。Aめ、私のコンプレックスを看破していやがる。
それでも、自分にはこの生き方しかない。集団で何かをしようというときに、ルールを守るのは当然だと思う。社会生活を営むうえで、個を犠牲にすることは当然出てくると思う。それが耐えられない人は、その社会から出ていくか、正当な形でルールを変えるかではないか。みんながいるなかで、個を、自分を最優先させるのは、仮にそれが「大成」につながろうとも、格好悪いのではないだろうか。私はそうとしか考えられない。残念ながら、我が子にもそうとしか伝えられない。
私はルールを守る我が子を誇りに思うし、他人の子どもに注意できた自分のこともなかなかいいぞ、と思いたい。そして、本当の意味での「のびのびと」とは、「このゲームがおもしろかったら何度でもやっていいよ。何度でも、おれはお前とこの列に並ぶよ」と言ってあげることだと思う。
育児をしていると、ふとした瞬間に生き方を突きつけられるので、つらく、そしておもしろい。