【産前の妻を支える】妊婦健診に同行して出産までの過程を共にしたい
現在進行形で子育てに悩みながらも、二児の父となり、多少なりとも経験値を積んだ私が、これから父親となる方に自分の経験を語る。
妊婦健診には極力同行したほうがよい。妊娠から出産までの過程をどれだけ共にしたかで、産後の関係性が変わってくると思われるからだ。
ほかの言葉がうまくはまらないので自分でも遣わざるをえないことがあるが、「子どもが生まれる」という表現に対して、私は若干の違和感を覚えている。
子どもは勝手に生まれるものではなくて、母親が生むものだからだ。「生まれる」という言葉には命がけの出産を行った母親に対する敬意が込められていないような気がする。
ただ、現状では母親側も「生まれる」という言葉を遣っているし、もしかしたら母親以上の闘いをしている「子」への敬意を込めた言葉なのかもしれないので、見直されることもないのかもしれない。しかし少なくとも個人的には、「生まれる」という言葉に含まれていない、「生んだ人がいる」という事実を忘れないようにしたい。
自分が母親だったら「子どもが生まれた」なんて言わない。「私が生んだ」と言う。「子どもだってがんばったけれど、私だってがんばった。私が生んだ」と言う。
夫なり第三者なりが自分のがんばりを考慮せず「最近子どもが生まれてさ」と言っていたら、怒りや悲しみが湧いてくると思う。
言葉はとても大切だ。
育児をしていて、よくやり玉に挙げられるのが「手伝う」という言葉。産後、私もよく「奥さんのことを手伝わないとね」と言われたが、冗談じゃないと思っていた。
家事育児は私の人生のど真ん中で取り組むべきことであって、「手伝う」なんていう次元の話ではない。言葉に鈍感な人にとっては揚げ足取りや言葉狩りに思われるのかもしれないけれど、言葉に鈍感であろうがなかろうが、家事育児をど真ん中でやっていれば「手伝う」という表現には絶対にならない。揚げ足取りや言葉狩りだと感じてしまうならば、ど真ん中でやっていない証拠なのだと思う。
「生む」「生まれる」についても、「手伝う」と同じぐらい、議論されていいのではないか。
……ものすごく話が逸れたが、妊婦健診のこと。母親となる女性は、妊娠期間から少しずつ変化をしている。お腹に新しい命を宿す、という、極めて特殊なことをしているのだから当然だ。
よく言われているように「子どもが生まれて嫁さんが豹変した」ということは、たぶん間違いなのではないかと思う。
妻は妊娠期間中から少しずつ変わっていたはずだ。もしそれをネガティブな意味で豹変ととらえるのであれば、それは「妊娠から出産までの人生最大級の出来事を支えてくれなかった男性」に対して、少しずつ抱えていた不満が、産後の育児ストレスとともに噴出した結果なのではないか、と思う。
これに対応するには、妊娠期間中から妻の変化や悩みをなるべく知っておいたほうがいい。妊娠期間中のことを何も知らず、出産に立ち会うこともなく、いきなり子どもと出会ったら、私も「子どもが生まれた」という感覚にならざるをえなかったはずだ。
しかし私は、産休前の妊婦健診は休日にしてもらうよう妻に頼み、ほとんどすべての健診に同行していた。そこで妻の変化や悩みに触れていたからこそ、「命をかけて妻が子どもを生んだ。生んでいれた」という気持ちを持てた。この気持ちは、産後、自分が育児ストレスに襲われたときも、自分を支えてくれるものとして機能している。
遠距離で生活をしていたり、多忙で妊婦健診に同行できなかったりしても、「健診で先生とどんな話をしたの?」「最近の体調はどう?」「今、赤ちゃんは何グラムなの?」「この写真はどこが頭なの?」などなど、妻に聞くべきことは山ほどある。
妊婦健診は定期的にあるので、そのタイミングを活用すると、定期的に妻を気遣うことができると思う。