つらいときは心の中の友人に問う

どうしようもなくつらいとき、私はいつも「自分の頭の中にいる友人」と会話をしている。心の中で「ギャルを飼えばいい」とか、そういうことに似ているのかもしれないが、私の場合はリアルの友人がそれにあたる。

私は、現在進行形の悩みをひとに相談することができない。どれだけ仲のいい友達でも、家族でも、先輩でも。仕事なら「相談しないと仕事が止まって他人に迷惑がかかる」という理由をつけて、人のためという体裁でちゃんと相談できるのだけど、プライベートのことはどうにも人に話すことができない。

「話したら相手に負担をかけるかも」とかそういう配慮ではなく、なぜか人に話すとより一層つらさが増してしまう。出来事が辛ければつらいほど、人に話すことができない。なぜ話すことにつらさを感じるのかはいまだによくわかっていないが、思った回答を得られずにもっと悲しくなることを怖がっているのかもしれないし、単に人に話すだけの体力が残っていないのかもしれない。(感覚的には後者だと思っている。)

そんな生き方をしているので結果的に私は、仲のいい友人にも自分の中で答えを出して行動して全部解決した後、客観的にみた過去の自分の話だけをすることになってしまう。自分の中で「全部終わった!解決!イェーイ!」くらいの、過ぎた過去の話にならないと人に話すことができないのだ。ほんとうにしんどいときには人と話すことも億劫になってしまうからそうなるのだけど、外から見たらめちゃくちゃ楽観的で呑気な人だよなぁ、と我ながら思う。

こんな風に悩みを言わない私をみて「なんで相談してくれないんだ」「自分は仲がいいと思っていたのに、あなたは違うのか」と関係性を憂う人もきっといるのだと思うし、すべてが終わって軽やかな気持ちで散々な出来事を笑う私を「メンタルが強い」とか「人の心がない」とか言う人だっていることも知っている。プライベートの悩みを話さないことがコミュニケーションの難易度を上げていることもよく理解している。でも話す方が苦しいから、許してほしい。

さて、こんなことを言っているときっと「じゃあ友達なんていらないじゃん」と思う人もいるかもしれないが決してそんなことはない。冒頭で話したように、私は心が人生の底にいる時、人生をもがいて1人で悶々としている時、心の中ではいつも笑顔で話し、自分の傷を理解し、自分を傷つけた人を自分以上に怒ってくれる心優しい友人や家族を思い浮かべては幾度となく励まされているのだ。

例えば「自分がこんなに悲しい気持ちでいたら、きっと〇〇も悲しい気持ちになっちゃうな、じゃあなにか元気になれるように行動しなきゃいけないな」とか。

私は自分の傷に鈍感でなかなか人に怒ることができないので、基準として「自分が大切な友人が同じ扱いをされて許せるかどうか」を考えたりすることもある。誰かから自分を軽く扱われてしまった時、「〇〇が同じ扱いをされてたら私はきっと怒る。だから自分があの人に怒ることはおかしいことじゃない。」とか。勝手ながら理由をつける。

こうして、(間接的に)助けてもらった友人に後日、「こういうことがあって、だからこうした。そのときに〇〇はこう言うかなと思って勝手に助けられたよ。」みたいなことを伝えると友人たちは毎回「そのときに相談されてても同じこと言ってた!正しいよ!元気そうで嬉しい。」と言ってくれたりして、安心してまた寄りかかってしまう。

これが良いことなのかはちょっとわからないし、心を勝手に想像した他人に委ねていることが健康なのかはずっと自分に問うているけれど、しばらくの間は、もう少し寄りかからせてもらおうかな、と思っている。

結局のところ、心優しくてサイコーな友人たちを自慢したいだけの記事でした。

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