愛なき言葉

 「愛のあるイジリ」という言葉が嫌いだ。

 イジり、もしくはイジるとは、誰かの行動や容姿について、それが一般的に考えられる範囲から外れているのだと、主に笑うことを目的にその誰かに指摘したり、集団での話題にしたりすることであると言える。

 イジるということは、その誰かの心を傷つけたり、恥ずかしい思いをさせてしまうから、本来控えるべきことである。イジりはいじめと同一の地平にある行為で、いじめは間違いなく許されない行為である。

 しかしそのイジりは、いじめから区別され、時に「愛のあるイジり」という言葉になって許容され、またあるいは積極的に肯定されることがある。

 「愛のあるイジリは、そのイジられる誰かをバカにしているのではなく、その人を認めて面白がってあげることだ」といった具合だ。

 随分と身勝手な論理だと思う。このような、相手がいる行為について、片方の主観によって、肯定されるべきではない。

 いや、私だって、すべてのイジりを例外なく否定したいわけではない。私の筆名の「えんぴつぺんぎん」は私の歩き方がペンギンに似ているという風にイジられていたから付けたもので、私は当初はそのように言われるのが嫌だったものの、今では正直気に入って、ペンギン自体の生態まで詳しくなってしまった(気に入ったことについて「自分でネタにするな」とイジられることもあるが)。

 また、失敗をイジッてもらって、落ち込んだ気分を救ってもらったことは何度もある。有馬温泉の脱衣所で、一人ふろ上がりにフルーツ牛乳をぶちまけた時、だれか笑ってくれていればどれほど救われただろうか。
 
 しかし、そういった肯定的に受け止められるのは、あくまでもイジられた人が受け入れて、許しているからに過ぎない。イジる側がどのような発想を持ってイジったかは、まったく問題ではないのである。
 
 私は、友人や後輩をなるべくイジることなくなんとか楽しい時間を作れないものかと思っているが、コミュニケーション能力の低さ故、相手をイジることしかできないことは多々ありというかほとんど常であり、いつも自己嫌悪に襲われる。
 
 私が友人を失わずに済んでいるのは、私のイジりが愛のあるものであるからではなく、イジられた友人たちが、面白がってくれたり、あるいは単に我慢して許してくれているからに過ぎない。いつか絶交されるんじゃないか、激怒して襲いかかってくるんじゃないかという思いは心の片隅にある。
 
 自分が「愛のあるイジり」をしていると思っている人は、相手のやさしさや我慢の上になりたっていると思っていないばかりか、中には「自分が、イジって面白くしてやっているんだ」と言わんばかりの態度をとるものもいる。心得違いも甚だしい。イジりによる笑いは、あくまでも相手の許しや我慢の上に成り立っているのである。
 
 このように、「愛のあるイジり」という言葉のせいで、正当な異議申し立てを封殺され、自分の尊厳を守るための行動を起こせない人は多いのではないか。
 
 イジりは、上述のように、確かに人を救うことはあるし、その場でみんなで楽しくなれることもあるが、あくまでも誰かの犠牲の上に成り立っている、例外的なおもしろさであることは、忘れてはいけないと思う。


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