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Sorry-Party #方言note

ずっと思っていたことを書く機会が、ようやく訪れた。好き勝手なタイミングで書いてしまえばいいのに、そこまでして書きたい・どうしても書きたいほどのものではなく、でも、いざ書くと決めたら心躍るわたしがいる。

なにって、関西弁におけるイントネーションの話だ。猫野サラさんが募集されている #方言note に寄せて、投稿します。

いつかのnoteにも書いたけれど、わたしは、関西で生まれ育ったにもかかわらず、関西弁がうまく話せない。ひとつには、母親が関西出身じゃないために「関西弁で人を育てるなんてできない!」と、半ば標準語に近いことばで育てられたことが影響していると思う。

幼児語というか、子どもに対してのみ使われることばの中にも、地方独特のものはある。わたしはそれらを聞かずに育った。

例えば、わたしは「おっちんしなさい」(もっとカジュアルに言えば「おっちんしぃ」)と言われたことがない。行儀の良い子どもだった(=言う必要がなかった)からではなく、母がこれを発せなかったからだ。
「自分が言われてきたんと違う言葉って、よう言わんかったわ〜」と、今ではすっかりなじんだ関西弁で、母は言う。

…解説が遅れました。
おっちんとは、「お座り」です。うろうろ動き回ったり、座ってくれなかったりする子どもに対して、使うそう。親戚すじでも最年少のわたしは、自分より年下の子と触れ合う機会がほとんどなく、「おっちん」の意味を知った(というかそれ自体を初めて聞いた)のが高校生になってからだった。
考えたら、幼稚園の先生も言ったことがなかったんだよな。もしかして先生は関西出身じゃなかったのかも。

いや、そんなん言うても、わたしかってしゃべれるんよ、関西弁。全然あかんってわけやなくて、一応は理解してるつもりやし、なんとなーししゃべれる。ただ、しっくりこんのよな〜〜。

というわけで(前置きが長い)、そろそろ、イントネーションの話をしてもよいだろうか。方言というものは、言い回しの違いだけでなく、音の高低にもあらわれる。わたしが関西弁になじめないと思っているのは、語形変化よりも高低差の部分が大きいかもしれない。

殊に強く違和感を覚えてしまうのが、

ごめんなさい

だ。

実は違和感の正体を認識できたのはここ1, 2年のことだが、わたしは長年、

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だと思ってきた。アクセント辞典の表記をしれっと用いたが、伝わるだろうか…。だけが少し低くて、以降は少しうわずるようになるものの、動きの少ないフラットなイントネーションだ。

対して、関西弁ときたら。

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だけが高い。もしかしたらのsぐらいまでは高いかもしれないが、そうは言ってもすぐに下がる。しかも、関西の高低差は極端なので、前出の「ご」「め以降」の差よりも大きく、「な」が突出して高い。

これがわたしには、どうしても

ごめんな祭

と聞こえてしまうのだ。謝罪の意図が感じられないにも程がある。

もちろん、相手に悪気がないことはわかっているので、こう言われたときにはむしろ、トゲトゲした心が和らぐきっかけをもらったと思って、快く許すことにしている。だって、祭りの最中に怒ってたらつまんないじゃんね。

でも、いくら楽しいお祭りがイメージできても、自分の口から「ごめんな祭」が発せられることは、今後もないのだろうな。自分になじみのないことばというのは、自然と避けてしまうものであり、「聞き慣れる」ことと「言い慣れる」ことは、別ものなのだ。

そんなん言うたかって、そのうち言うてまうんやろかぁー。かもなぁー。知らんけど😝

七志野さんかく△Twitter@_oya_smi

【あとがき】
関西弁の部分の方が、断然、書くのに時間を要した。これは、日本人が「英語を読めても、書けない/話せない」と言われていることと似ていると思う。いったん日本語で考えてから英訳しようとするから、コミュニケーションがスムーズにいかないのだそうだ。わたしも、標準語で思考して、それを関西弁に直そうとして苦戦。ここまでくると、ほんとうに関西生まれ・関西育ちなのかが疑わしい。

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七志野さんかく
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