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△わたしがななしのさんかくである理由

正直なところ、「なんとなく」なんです、この名前。意味のある文字列で名乗ることが、少し怖くて。
別に、炎上した経験があるとかではないし、何か嫌な目に遭ってきたわけでもないのですが、顔の見えないネットの世界で、個人を主張したくなかったから。

本名なんてもってのほかです。まあ、申告しない限り、使っていてもそれが本名であることは分かりはしないけれど。

それでも本名を選ばないのは、何より自分自身が、HNという殻をまとうことで安心できるから。
また、そのHNが意味のない文字であればあるほど(と言っては△に失礼なのだけど、花子ちゃんとかさつきちゃんとかよりは断然、人名としての意味が薄い)、安心感が大きくなる。

わざわざ告白することでもありませんが、Twitterではnoteと連携させている以外に△名義ではないアカウントも持っていますし、ベストコスメの投稿でチラッと書いたように、コスメサイトでもまた別のHNを使っています。

△という名を初めに使ったのは、Twitterだった。「自分で自分の機嫌をとる」をモットーに、ちょっとした嬉しいことがあったり自分を喜ばせることができたりしたとき、ツイートするアカウント。
「嬉しいこと」は「好きなもの」と関係が深いので、紅茶について語りたいと思って使い始めたnoteでも同じ名前を使うことに決めた。

大げさに言うなれば、ある種の多重人格、みたいな。コスメが好きなわたしは○○ちゃん、好き勝手にツイートするのは□□ちゃん、ここで紅茶のことを語りたいのは△…といった具合で、HNごとに、キャラというか出す話題というかが、異なっている。

でも、そんな厳密には分けられない。

このアカウント(名前)でこんなこと書きたくないな、とか、そういう、作っている人物像から逸脱するポイントが、必ずやってくる。そうなると更新が停滞したり、ひどいときはアカウントごと消してしまったり、そういうことが起こる。
どの名前であろうと、どのアカウントであろうと、すべて「わたし」が書き残してきたものに違いないのに。

自分を認めることが、昔から苦手だ。だから、少しでも自分を好きになれたら…そんな安易な発想だった。

どのHNの自分も「こうありたいわたし」の断片だから、それぞれに愛着が持てて、それで自分を受け入れることができたつもりになっていた。本当は、それらの断片の隙間を埋めていくことこそが、自分を認めることなのだろうに。気づかなかったのか、気づかぬふりをしてきたのか。

先月、紅茶の話題に自分を縛りつけることもなくなって、自由になってきたと書いた。それをもう少し具体的に自己分析しようとしたところ、生まれてきたのが、この文章。珍しく、校正をほとんどかけていません。それほど、自分の気持ちから衝動的に綴っています。

今は、noteでのわたしのことが一番好き。他のHNではまだまだキャラクターを制限してしまうけれど、noteでは、比較的いろんな面を出せている。だからこそ自問自答しているのだ。わたしは「△」で良いのか、と。

引用するまでもなく有名であろう、こんな記事がある。もし未読の方がいらしたら、ぜひ。

わたし、心のパンツを脱がないようにするどころか、心のパンツをあの手この手で隠そうとするマントを、幾重にもかぶっているんですよね。

はじめの方にも書いたように、△という名はわたしのマントのひとつでもある(はじめには殻と書きました、忘れたわけではないけれど、パンツの話題を出させていただいたら、マントと書くほうがしっくりきたので)。

じゃあ、そろそろ外してみてもいいんじゃないの、そのマント。せっかくいろんな面が出せるようになってきたのに、名前にマントをまとったままじゃ、もったいないんじゃないの。

だからってすぐに、名乗りたい他の名前を思いつくわけでもないのが、またなんとも言えないところなのですが。

中途半端な展開だけれど、想像以上にスムーズに書けてしまったので、手が止まったところが今日の落としどころだと自分を納得させることにして、もうここまでで投稿します。
わたしがななしのさんかくである理由、でした。

noteの更新状況は、Twitter @_oya_smi でもお知らせしています!

#表現とこころ賞 、参加したかったな。もう終わったコンテストだけれど、タグは使ってよいそうなので、お借りします。

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