8月記 空蝉に詰める
九州から関東に引っ越してきたので、土地柄なのか、「今年は」なのかわからないのだけれど、お盆を過ぎた頃から夏が終わりを感じさせ、8月31日の今日、秋の気配を漂わせ始め、あまりの優等生ぶりに驚いた。
わたしの知っている夏とは違う。
わたしが去年まで過ごしていたのは日本の西で南の方だったから、夏が9月まではみ出すのは当然で、なんなら九州での夏は欲張りに10月までギンギンに主張をしており、いつまで半袖を着せられるのかと、夏大好きなわたしでも飽きれたものだった。
だから、物語に出てくるようなお利口さんの夏は、ちょっぴり寂しくもあった。
今年の夏は、初めてきちんと外出時に日焼け止めを塗って過ごした。
日焼け止めがあまり好きではないわたしは、ちょっとのお出かけくらいなら例年塗らずに過ごしていたのだけど、今年はストレスなのか年齢による肌質の変化なのか、肌荒れがすごく、これ以上悪化しては堪らないと必要に迫られた。
コッペパンみたいに外側がほのかに小麦色になっていた腕が、今年は裏表が同じ色をしていて、人生30年目にして、あれ日焼けだったのかと知った。腕ってそういうものだと思っていた。
学びも、経験から物事を受け流せるようになることも、人一倍時間のかかるわたしはまだまだ知らないことも出来てないこともたくさんあって、人生のチュートリアルをいまだに満喫している。
困ることもあるけれど、発見を一つずつ楽しめるのは得した気持ちにもなる。
今月、わたしはまた一つ学習した。
つらいとき、しんどい時、なんとなくでその場を惰性で凌ぐのではなく、きちんと人に頼る。
今まではみんなつらい、みんなしんどいから、自分の苦しみはできる限り、自分の中で処理してなかったことにしなきゃいけないって思ってた。
でも、それが上手に処理できなくて、人に隠せる容量は増えれど、蓄積したものはどんどん大きくなって、その場しのぎでどうにかしたつもりになって、でもやっぱりだめで、どうしようもなくなって、というのを繰り返していたのだけれど、頼り方を教えてもらったら、それだけで気持ちがとても楽になって、これだけのことだったのかって知った。
頼らせてくれる人がいたから、こそだけど。
甘えていいんだなって学べたのは大きい。
おかげで生きるハードルがずいぶん低くなった。
相手次第とはいえ、そういう時に手を差し伸べてくれる人がいるのに、不確定要素だからと排除して自分だけでどうにかしようとして潰れているのは、そりゃ生きにくいなと。
それに逆の立場ならわたしは、頼ってもらえなかったことを悲しく感じると思う。
距離感に応じて、出来ることは違うかもしれないけれど、その人との関係でここまでは出来るなって思える部分があって、その関係性をなかったことにして、1人で苦しんでいる様子を見せつけられると、相手にとっては自分との関係はそうじゃなかったのかなと感じるだろう。
つまりですね、わたしめっちゃ失礼なことしてきたな...という自覚も同時に学んだんですよ。
大切な人をちゃんと大切に出来る人間でありたい。それだけは見失わずに生きていこうと思いながら、生きてきたつもりでした。
だからこそ、自分を保つために利用したり、都合よく扱いたくない、って想いがあって、それが逆に相手を傷つけたこともあったのではないか、と。
何人か顔がよぎった。
その節は、大変申し訳ございませんでした。
学べたなら変えていきたい。
幸い、わたしは人に恵まれる。
人と一緒に生きていこう。
同時に自分がさっと差し出せる余力も増やしていきたい。そのためには、やっぱり自分自身の基盤をきっちり整えねば。
もらった優しさは、与えられる優しさにしたい。
大切にすることも優しさも学ばないとできないことなので、きちんと取り込んでいこう。
8月総論でいうと、全体的に意図的に取り組んだ習慣が定着してきて、前進を感じられる1か月でした。
9月から仕事が変わる。生活が変わる。
油断せずに行こう。
秋が来るね。
長袖に腕を通すのが楽しみ。