「ベートーヴェンは守銭奴だった?。」
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一般に知られている通り、お金と無縁なのが音楽家である。
稀な例として音楽家が大富豪であったケースは、元々、実家が裕福な銀行家であったメンデルスゾーン=バルトルディや、幸運にも、やり手の興行主ザロモンと出会い、大英帝国で大成功を勝ち得たJ.ハイドン。
あとは、作品が一時金で買い取られ、その後に自分の作品がどんなに売れても、作曲家への支払いがなかった商習慣を、現代に続く《著作権》へと変えさせることに尽力したイタリア・オペラの巨匠たるヴェルディをあげる程度で、概ねは、才能には恵まれているが、経済的には困窮する例が多い。
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さて、ベートーヴェンのピアノ曲には『失くした小銭への怒り』作品129(Die Wut über den verlorenen Groschen)という変わったタイトルの作品がある。
彼の楽聖としてのイメージを崩すのは申し訳ないが、生前のベートーヴェンは、守銭奴と言っても良いほどに、お金にうるさかった(執着が強かった)。
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ベートーヴェンがハイドンに師事するためにウィーンに出て来た1792年。その前年に困窮のうちにモーツァルトが没し、ミサも行われず墓標すらない共同墓地に投げ込まれた。
かつて弟子入りを考えたモーツァルトの惨(みじ)めな最後は、ベートーヴェンをして、「自分は、あんな死に方はしたくない!」と思ったに違いない。
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彼は、当てにしていたものの、フランス革命(1783-1795)の余波で、音楽どころでは無くなったウィーン宮廷への就職を諦め、そのままフリーの音楽家としてこの地で生きることになる。
まず、収入源として彼が目をつけたのは、貴族にパトロンになってもらう事だった。いくつかの作品が貴族に献呈され、献呈料を得る。
ただしそれらは一時金であり、安定収入とはなり得ない。ベートーヴェンは、他の宮廷との専属音楽家を打診。相手先から引き抜きの話が舞い込む。ウィーンの貴族たちは、ベートーヴェンにこの地に留まる事を条件に、年金の支払いを申し出たのだった。
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他の宮廷からのヘッドハンティングをネタに、ウィーンの貴族たちから好条件で、年金の支払いを引き出したベートーヴェン。
ここまでは、彼の思惑(おもわく)通りであった。
だが、フランス革命からナポレオンの台頭。そのナポレオンが率いるフランス軍との戦い、1809年のオーストリア戦役の戦費調達に大量の通貨を発行したために起こった激しいインフレ。それにより、当てにしていた貴族たちが次々に没落したのである。
貴族からの年金が頼りにならないと見るやベートーヴェンは、それまでの名声を武器に、出版社に、かなり高額の作曲料で契約を取付ける。一方で、ウィーンの富裕層向けの定期演奏会を主催。
演奏による収入との合算で彼の年収は、数千万円に達したという。
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さらに、ここからのベートーヴェンは、先見の明という他ない。
演奏会から得た収入を、当時、誕生したばかりの資産運用である《株式投資》に回したのである。買ったのは1816年に設立された《オーストリア国立銀行の株式》。
株式からの配当金は、当時の上級役人の年収に匹敵する金銭であった。また、株価も順調に値上がりして、買い付けから6年後には倍額になっていた。株式投資として大成功である。
ベートーヴェンがウィーンで、その生涯を終えた時の遺産は、当時の高額所得者の上位から《第5位》であったという。
音楽家としての才能は勿論のこと、資産運用や、自身の売り込み、マネージメントにも非凡な才能を奮ったベートーヴェン。
このお話を聞いて、あなたの彼への見方が変わったのではないでしょうか。音楽は、知れば知るほどに、面白くなるものなのです。
(MIYABI)