日記 2021/07/25


 何かを考えて物事を決断する時、思考にはその人それぞれのコントラストがあるはずだ。
 たぶん、自分自身の事ならそれを理解することができるし、他人の事でもそれを把握して考えることができる人もいる。
 でも、何かを批判するときにそれを実行できる人は少ない。
 それは批判の性質によるものではあるが、多様性を議題にすることがそもそも大変に困難であり、
 多くの事を一つの意見としてまとめる事は非常に難解で、意見の本質が霧散してしまうから、そういった書き口で批判は行われない。
 批判の有り様としては正しいのだが、それでは納得ができない。
 個人個人の思考の本質を見ていけば、単純なことだけで何かを決めていくということはあり得ないはずだ。
 生まれや育ちやこれまでの消費行動など数えきれないほどの過去と、今の環境や世界情勢、通帳に何円入ってるか、精神状態は幸せなのか、不幸なのか。そうした現在。
 それぞれが個人のコントラストを生み出し、思考し、行動を決断させているということは、ただの再確認であり、当たり前のことだ。
 でも、批判になると途端にそれが画一かのように扱われ、正しさや過ちといった分かりやすい判断に置き変えられてしまう。
 確かに、結果や行動は一つしかない。批判の都合上1対多数であるため、そんな一人一人の都合なんて聞けないことも理解できる。
 理解できたとしても、私はそれを飲み込んで納得することができない。
 全ての批判が納得できないから存在する必要がないと思っているわけではない。
 ただ、COVID-19ワクチン、東京2020オリンピック、藤本タツキのルックバックの流れで、
 どうしても自身の意見が画一化されて批判の対象にさらされているような、居心地の悪さがぬぐえなかった。
 納得ができなかった。単純な思いから思考を重ねて意志を持っているわけではない事を証明したかった。
 早く脳波を外部出力して思考を保存できるようになってほしいと願った。

 こういう思いをアウトプットする場としてのメモ帳代わりの日記は有りなのかもしれない。

アジカンの新曲、良かったですね。


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