興味が人生を豊かにする
「心の趣くままに、手を伸ばせたら」
私の後悔も含まれている。しかし、重要な考え方だと私は思う。
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先日の初投稿は読んでいただけただろうか。
後から見返せば、もっといい表現の仕方があったと気づくものだが
”今” の私を遺すために始めたのだ。
読み返すたびに ”今” の私の成長を実感する機会を得られると、捉えようと思う。
二つ目のテーマというのはなかなか決めるのが難しい。
何から伝えていけばいいのか、正直未熟な私にはわからない。
本当は別のテーマでほぼ書き上げていたが、最近の周囲の出来事から、こちらの方が先に伝えたいテーマだと感じたためにこうして書いている。
前回の投稿から時間が空いてしまい、待っていてくださった方々には本当に申し訳ない。
心の不調、以前から予定していた旅行で文章を書けず、推敲もできなかった。
どうか、ご容赦いただきたい。
日頃の私を知る者ならば、私がつい、あれこれと付け加えてしまい、頭の悪い、要点が見えなくなるような長ったらしい語りを展開してしまうことはご存じであろう。
前回の投稿を見て、そう感じた者もいるだろう。
今この文を書いている私自身も、本題になかなか入らない、長い文章だなと感じ始めている。
興味を持つこと
「これ、面白そう」「なんだか、知りたいな」「不思議だな、あれ」
興味と一口に言っても、その解釈は人それぞれ異なるだろう。
今挙げた以外にも、興味を持つ瞬間、湧く瞬間はあるはずだ。
これはごく普通のことだと思うだろうか。
興味を持つということが。
そう、普通じゃないと思っている。
私にとってこれは、とても幸せなことだと思っている。
私のバイト先でこんな話があった。
単に私を貶すためにそう言ったのではないと思っている。
私自身そう思っているし、それに困っているという話も以前からしていた。
私は一般に有名とされている映画や名所、流行など、知らないことがとても多い。
例えば、ワンピースやドラゴンボールの漫画・アニメは一度も読んだことがないし見たこともない。
あまり自分の不幸話を意気揚々とするものではないが、この考えに至る背景を少しお伝えしたい。
私の父は、控えめに言ってゴミだ。強烈な言葉だと思うかもしれないが、
”控えめに言って” である。柔らかく表現したつもりだ。
高校生の時、同級生からこんなことを言われたことがある。
彼はずっと前に両親の離婚を経験していたそうだ。その時、母親から言われたらしい。「あんなのいらない」と。
私の父は少し異なるが、似た要素を持っている。
何故そんなことを伝えたか。
もちろん彼の言葉が私の中でとても響いたということもある。ただそれだけではない。
私が興味を持つことを避けて生きてきたことを伝えたい、さらにその背景に、家計が苦しいものだと安易に解釈していた過去の自分がいたことが関わっていると伝えるべきだと感じたからである。
私の父のゴミっぷりはここでは書かない。
正直少しでも思い出すだけで吐き気がするほどだ。
簡単に、なぜ興味を持つことを避けてきたのか伝えよう。
幼い私は、母が私にかけてくれるお金を目の当たりにしては
「まともに働かない父親のせいでお前がいっぱい働いてるのに、なんで私にそんなに投資できるんだ」
と感じていた。
私には妹がいるのだが、彼女は私より多才であると思っている。
運動もできれば芸術もできる。
そんな可能性豊かな妹への投資ではなく、私への投資を優先するとはどういうことだと、非常に親不孝な思考を巡らせていた。
実際妹は「お兄ちゃんばっかりずるい」と漏らすことが何度もあったほどだ。
--限られたお金が私のために使われる--
私だけの幸せを優先するなら、とても都合がいい状況であったし、年長者の特権だということもできただろう。
母を簡単に利用し、自由な人生を送っていたのだろう。
しかし、私は妹にもっと愛情を注ぐべきではないかと母に問いたかった。
もちろん私には見えないところで、妹のことも大切にしてくれていたのだろうとは思うが。
大して親とコミュニケーションをとっていなかった私は、面と向かって話す機会を作ろうとはしなかった。作れなかった。
ゆえに実行したのが ”興味を持たない” ということだ。
私が興味を持つものに、母はお金をかけてくれた。
読んでみたいと思った本があれば、何冊でも買ってくれた
バッティングセンターに行きたいと言えば、100円玉を4-5枚用意してくれた。
私が興味を持ち、欲望を露わにすると、お金をかけてくれる
ならば、それを抑制すれば、母に見せないようにすれば、妹へかけるお金が、母自身にかけるお金が増えるのではないか
そう考えたのだ。小学生レベルの思考だから、単純だと思われるだろうが、私は信じて止まなかった。私が行動すればいいのだと。
もちろん自分の興味・欲を完全に抑えることはできないものだったが、私なりに強く意識して生きてきた。
その結果として、興味を持つことを避ける生き方が私の中で確立したのだと思っている。
冒頭に後悔と述べたのはこのことだ。
正直、有名なもの、世間のことを何も知らなすぎる今の私は非常に残念な人間だと感じてしまっている。
今更そんなことを初めて体験するのかと、心無い言葉を浴びせられ得ると悲観的になってしまうものだ。
さて、これまでのことが言い訳に聞こえる者もいるだろう。実際言い訳かもしれない。
無意識のうちに親のせいにしている気もする。
しかし、私が興味を持つことを避けるようになった背景には以上のようなことが間違いなく存在している。
興味を持てるのは幸せなこと。
裏返せば、興味を持てないのは幸せではないということもできるだろう。
実際そうなのかどうかは、わからないが。
本題はここから
自分語りが長くなってしまった。
先述の通り、興味を持つことは幸せなことだと私は思っている。
たとえ私の持つような背景がなくとも、興味を持って、そこに手を伸ばすことは簡単なことではなく、意外と大変なことだ。
単に興味を持つだけでなく、そこに手を伸ばし、知ろうとすること、体験しようとすることは確実に、人生に彩りを与えるし、自分の世界を広くしてくれる。
興味がもたらすもの
興味は人生を豊かにする要因だと、私は信じている。
私のこれまでの人生が豊かさに欠けるものだと感じているからこそ、そう信じているわけであり、根拠は非常に弱いものだが。
先ほど ”人生に彩りを与える、自分の世界を広くする” と表現した。
実際そうだと感じる人も多いのではないか。
何か行動を起こすとき、その先にあるものに興味があるという場合がほとんどではないだろうか。
たとえば、前回もお伝えしたように、私は中学の国語教員を目指していた。
しかし、吃音に興味があるから、言語聴覚士という仕事を知ることができたし、大学受験の選択肢の一つに今の大学を含めることになった。
吃音への興味がなければ、言語聴覚士など今に至るまで知る可能性は非常に低かっただろうし、今通う大学など受験校候補に入るはずもなかった。
ゆえに今住む地域のことはほとんど知らないままだっただろうし、たくさんの素晴らしい出会いもなかっただろう。
もちろん他の場所にいても、似た出会いはあっただろうし、全く異なる出会いもあっただろうが、それを取り上げてはキリがないのでここでは考えないでおこう。
もう一つ例を挙げよう。ある学問、たとえば経済に興味を持ったとしよう。
それを学びたいと思い学び始めたとする。
以前までは義務教育レベルの知識しかなかった経済の世界には、知らないことがたくさんあるのだと気づく。
ミクロ経済学、マクロ経済学というものがあるのか。この経済学はそんな考え方をしているのか。
などと、より世界が広がる経験をするのではないだろうか。
ほとんど知識がないゆえに、幼稚な例えとなったが、お許し願いたい。
とにかく伝えたいのは、興味が貴方の世界を広げるということ。
世界が広がることと人生が豊かになることには一つの関連性があるように感じている。
人生の豊かさをはかることは難しいと思っているが、一つの指標として、参考程度に使えるとすればそれは ”刺激” だと思っている。
その刺激は、私たちが、貴方が、関わる世界からもたらされる。
ならば世界が広がる経験をするほど、貴方へ与えられる刺激は増えるものではないだろうか。
興味がもたらすのは刺激
そう言うことができるのかもしれない。
心の趣くままに手を伸ばす
これを実践できることが、とても大切な事だと私は思っている。
興味というのは、簡単に湧いてくるものであると同時に、簡単に消えてしまうものでもあると思う。
ある時ふと、興味が湧くとする。しかし何も意識せずにいると、その興味の対象が何だったのか、忘れてしまっていることも多いのではないだろうか。
忘れたのちには再度意識することもなく、忘れたことに気づけていない場合もあるだろう。
心が新しい興味の方を向いたとき、そちらに手を伸ばす。あるいはメモを残すなどの興味の保持を行う。
そうして、心の趣くままに手を伸ばしてみる。
その時、私たちの世界が広がるきっかけが生まれるのだと私は思う。
興味があることに素直に手を出すことができれば、それだけ世界を広げるチャンスを得られる。
人生がより豊かになる。
豊かな人生とは何だろう?
それはまた別の機会に考えてみることにしよう。
心の趣くままに、手を伸ばせたら
貴方が持った興味はきっと、貴方の人生を豊かにするだろう。
私の文章に興味を持ってくれた貴方には、私の紡ぐ言葉を通じて何か少しでも、良い発見をしてもらえるよう、これからも書いていこう。
幸い、noteというものは気軽に私の文章を読むという行為に手を伸ばしやすい。
貴方が心の趣くままに、手を伸ばす。これを気軽に実践できる場にしたいと私は思う。
貴方の興味の一片を、是非私に向けてほしい