ウルトラマンの肩の上に立つ
米津さんの曲がエンドロールと共に流れる。すごく面白かった、いい映画だったなぁという実感が流れてくる。最高の終わり方。
しかし、映画体験はこれで終わらなかった。続いて「さらばウルトラマン」が上映されたのである。
当初抱いた感想は、「正直ちょっと蛇足かも」。もう少しシン・ウルトラマンの余韻に浸っていたかったし、音声や画質もやはり昔のもので現代の技術で構成されたシン・ウルトラマンを超えるものではなかった。
しかし、一日経って落ち着いて作品を振り返ってみると、直後に「さらばウルトラマン」を観たからこそ得られた実感がある気がした。
シン・ウルトラマンを見て驚いたのは、神永が最後に希望を託したのがバディである浅見ではなく非粒子物理学者・滝明久である点だ。神永と大して接点があるわけでもなく、みんなをまとめる班長というわけでもない。もしもただの若手学者一人があのまま全てを諦めてしまったら、光の国の叡智は人類にもたらされること機会は失われ太陽系はウルトラマンもろとも滅却されてしまっていたわけである。そもそも神永には光の国の叡智を人類に伝える暇があれば、滝ら世界の研究者全員が導き出した答えなど神永一人で導きだせたに違いない。
ではなぜ神永は滝に託すという不確実性の高い方法に賭けたのか。
物語を滝の視線に立って見直してみよう。ウルトラマンが来てからの滝には絶望があった。今まで滝が必死に戦ってきた禍威獣をなんの被害も出さずに倒してみせるウルトラマンを見て、滝は何を思っただろうか?最初は必死だった滝の言動は、次第に投げやりになっていき、ネフィラスの技術の理解に匙を投げ、人類の危機に際してはウルトラマンに全てを託しストゼロを飲んだくれる。悔しい、逃げ出したい、考えても無駄、彼の心中にはさまざまな想いが渦巻いていたに違いない。
それでも彼は考えることをやめなかった。やめられなかった。だから禍特対の部屋に戻ってきた。
そもそも学者になるくらい酔狂な人は往々にして考えるのが好きなのだと私は思う。彼は人生をかけて考えてきたのだ。絶望して、諦めて、地球最後の日に何をするかを思った時、今までやってきた思考の続きを考えたくなってしまうのだ。思考の先に絶望が待っていると予期しているからストゼロを飲みながら、それでも考え続けるしかできないのだ。それが学者という生き物なのである。
神永は人類が考え続けることに賭けたのだ。いつか、それこそ悠久の彼方で人類が光の星を超えることを夢見てしまったのだと私は思う。
神永からのメッセージが論文の形態をとって書かれていることも胸が熱くなるポイントだった。
Google Scholar(論文用のGoogle検索)のトップページには「Stand on the shoulders of giants(巨人の肩の上に立つ)」という標語が掲げられている。今までの科学者たちが紡いできた知識を巨人に喩え、現代人が過去の人よりもより広い世界を観ることができるのは知識の積み重ねを踏まえているからであるという意味の言葉だ。
シン・ウルトラマンのエンドはまさに「巨人の肩の上に立つ」ものではなかっただろうか?巨人から授けられた知識のほんのちょっと先を研究して現実世界の問題を解決する。おんぶに抱っこではいけない。いくら巨人が大きかろうと、その上で自分の足で立たなければいけないのである。
最後に「さらば、ウルトラマン」について触れたい。これは系譜であり、時代の進歩の再認識なのだと思う。
特撮が拓いた世界があるから、今の映画がある。ウルトラマンがあったからシン・ウルトラマンがある。技術は着実に進歩していくなかで、物語は再構築されていく。
現実世界の我々もウルトラマンの肩の上に立っており、今までの人類が誰も見れなかった景色を見れているのだ。