儀礼と鍼灸と勉強会と
気が乗らない。
鍼灸の儀礼について考えたら嫌いであると気づいてしまって、余計に気が乗らない。
なのでダラダラ駄文を書いていこう。
1.鍼灸は宗教、神は氣。
2.愚痴と氣についての現時点での考え。
3.勉強会は嫌いだ。
4.結論のようなもの。
鍼灸は『氣を信仰する宗教』で、儀礼だらけだと思った。
鍼灸は氣というものを理論に組み込む東洋医学から出来ている。
氣は現実に存在してるかどうか証明ができないもので、言うなれば神と同じ概念にあると考えられる。
従って鍼灸は氣を信仰する宗教だということだ。
氣は目に見えないから感じることを皆で学ぶ。
これがトーテム(象徴)の儀礼だ。
学校では少しだけ、勉強会などでたっぷり学ぶ。
そしてなんか氣がわかったような気になった奴が『わかった!見えた!』と沸騰する。
あほらし。
氣なんかわからんし、見えるわけないし。
そもそも先生もわからんだろ。
考えるだけ無駄である。
最近私はカントをインストールして氣について考えることはしないほうがいいと結論づけた。
よって氣がなんなのかは知らない。
どこにでも誰にでもいつでもあるが存在は証明できない。
それでいい。
あとは古典に従って学び、自分の感性を信じて鍼を刺すことをやっていくのだ。
余談だが私はみんなで何かする勉強会が嫌いだ。
そこにいるのはなんとなく先生に教わったことをやっていれば願いが叶うみたいなキラキラした奴ばかりだ。
そんなやつと組んで手技をしあうのも嫌だし。
今度コラボしません?とかノリノリで名刺渡してくる奴なんかぶん殴ってやりたくなる。
よく考えろよ。
なんかわかった気になって沸騰するなよ。
勉強会に来て先生のコネを使おうとしてるの見えてるぞ。
鍼灸は古典からの氣を自分なりに解釈して、診断で無理矢理カテゴリー分けする。
そして正体不明の氣というものにお伺いをたてながら施術し続けるのみということが私の考え。
なので基本的に鍼灸の勉強は1人で古典を勉強するか、古典の解釈を学べる勉強会(皆で古典研究しようはまぁ正解だろう)に行くしかない。
なんか鍼灸の勉強法とか氣についての考えとか話が右往左往した。
要は鍼灸が氣という概念を得た宗教のようなものであることは間違いなく、それが鍼灸師界隈の結束を高め、その結束がとても嫌いだ。
だから1人で古典を読み、自分の感性に従うしかないのだ。
ということが理解できたから有意義だったと思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?