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“社会人”ダイアリー

熱暴風かのごとく遥かな時間が流れ、気付いたら大学を卒業し、滑り込んで新社会人にしれっと紛れ込めた。
ただ何も考えず(いや実際頭は使っているんだろうが)目の前に与えられたことをやっていれば1日が終わって、それに対してきちんと対価が払われて、〝社会人〟になったことできちんと社会に参入してもよいという免罪符を貰えた気持ち。
快適かはさておき、居場所がちゃんと与えられた感覚。帰属意識、というやつ

大学生の時に感じていた囲われた感覚、モラトリアムの暖かさ、心地よさ、井の中の蛙であった自分。それを遠くから眺めて、やっとこれらを取り払って地面を踏み締める感覚を得た気分。そんな自分に気付いて、この状況から脱したかったとは、と新たな発見をする自分にも気が付く。多分、周りがきちんと自分の羽で生きているのを見て、羨望の眼差しで見つめていたんだろうね。

大人になればある程度世間への物分かりが良くなって周りを取り巻く事象に逐一悩まなくなるだろう、なんて思っていたけれど、実はそんなこともなく。自分のしょうもなさに、弱さに、脆さに、レベルの低さに、悩んで、打ちひしがれて、悔しくて、惨めで。何より、こういうことにいちいち振り回される自分のしょうもなさに辟易していたようにも思う。元々自分のことが好きかといわれると“どちらでもない”に該当するけれど、特に、自分のことがどんどん嫌いになっていった。

ただこういう環境にいれば一番自分が成長できるのは知っているし、足が止まっている感覚を覚えるような場所にはいたくなかったから、challengingな場所を選んだわけで。
教育から離れた訳じゃないけど、自分が身を置こうと思っているところとはかけ離れたような場所でもある。数字で争い比較される世界線から離れたくて、教育というフィールドを選んだというのに、結局のところ成約率やら売り上げやらという尺度がひとつの個人を評価する基準である世界に飛び込んだ訳である。
そんな中で半年くらい時間を過ごしてわかったのは、ものさしで測られ続ける競争主義的フィールドでも、心の持ちよう、目指す方向、なりたいものをある程度構想できていれば、思っていたよりも苦しめられずにやんわりとシフトチェンジして生きていけるということ。もちろん、競争のトラックから外れることなく。
そこで得られる学びを会社の人間としてではなく自分のスキルとして手に入れて。いいものは吸収しつつ自分の芯は失わないように。
なんとなく自分が仕事をする意義が、生活するためだけでなく、見つかったようなきも最近している。

“凪の人生よりも波のある人生を”とはよく言ったものだ。
波があるのは致し方なく、どうにか受け入れて、乗りこなすか、揺られて呑まれながらもなんとか泳ぎきるしかなくて。
逃げるのもひとつの手だが、きっとその逃避はその人自身をほんのひとときしか救ってくれない。
あまりにも災害レベルの高波ならきちんと避難して、頃合いを見てボードを手に身ひとつで飛び込んでいく。

いつかサーフィンしてみたいなあ。渋谷で仲良くなった学生さんに、機会があったら教えてもらおう。今どこの国にいるのかよくわからないけど。

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