ねむ
苦しかった、或いは「異世界」で過ごした中高の時の記憶がどんどん薄れていく。私にとってそれらは本当に大きい出来事で、人が理解できるとは思わないけど(私も他の人のことを理解できないのと同様に)ずっと抱え続けたい原点でもあるのだ。記憶が薄れていくのと裏腹に、というか薄れていくからこそ、思い出への屈折した愛着やこだわりが強くなる。この愛着やこだわりが思い出を変な方向に捻じ曲げたり解釈して定着させそうで、それもまた怖い。そういえば某学術書に書いてあったとおり、未来が不定形なのと同様に過去も不定形なのだ、と実感としてようやく思う。
要するに、今の環境は-もう10年ほど前からだけど-贅沢すぎる。そして周りは贅沢を当たり前に享受してそれ以外の世界を気にかけることのないように、善意はあってもただ単に鈍感なように、或いは施しを与える形で振る舞っているように時々感じられる。それは私が歪んだ目で見ているからかも知れない。そして人様をそうして糾弾できるほど私は他の色々な種類の苦しみを経験も想像も出来ておらず、むしろ私が冷めた目で見ている人の方ほど色々なことを経験していたりするかもしれない。甘ちゃんなのは私の方だ。見えるもので判断してはいけないというのもまた、昔から自分の信条の一つにしていたはずなのに。
この話はいつもここで突き当たって堂々巡りで終わる。この前に『公平を乗りこなす』を読んだがあの本はとても良かった。公平をテーマに論じるときにマイノリティの問題がここまで中心的話題の一つとして出てくるのは、今の時代の空気感を反映しているようでもあると感じた。