目に見える影響以外にも想いを馳せ、想像を膨らませる
…わからない。すべてはバランスなので、自分でも自分がここで書いていることが妥当なのかどうか判らない。門出シーズンで湧くなかでこんなことを書くことに怖さを感じるけれど、帰国後に東京を歩いて生じた心情と考えを素直に書いてみることにします。
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1年の節目ということもあり、東京はお店もレストランも活気に溢れていました。人々の楽しい様子をみるに越したことはないと思う一方、どこか寂しさも感じてしまった自分がいました。こうした楽しいことや仕事をやめろとは言わないけれど、コロナによる混乱の現場に意識を向け、かつ、行動がその惨事にどう加担し得るかに想像を膨らませる時間と心掛けがもう少しあったらな、と。(勿論、自戒も含めですが。)
というのは、死亡率は低いとはいえ多くの死者が出ているし、一部地域では患者のみならず現場や役所で働く方も疲弊しています。そしてその方たちは、メルケル首相も18日の声明で言っていたけれど、他人とはいえ隣人です。自分の身内との代替可能性もあります。遠くからであっても、こうした悲惨に対して一種の追悼や覚えみたいなものは持っていたいです。
そのためには、意識の矛先を考え、懸念を言動を通じて表すことも少しは必要かもしれません。例えば人と会うにしても、惨事やアウトブレイクに加担しかねないことを念頭に置きながら、会い方を工夫するとか。加担しないよう努力することは、クレーム回避ではなく、惨事に対する覚えの表明です。
個人的には、実際に人にウイルスがうつるのか/うつらないのか、かかるのか/かからないのかという観点と同時に、個人としてどういう意識を持っていたいか、またはどのような態度を示したいかという観点を持つことも大切だと考えています。
確かに、政府からの声明/要請がない限り、危機感を持つことは難しい。普通に東京で過ごす限りでは、コロナによる変化や影響を実感し難いからです。なので政府のやり方を指摘して終えたいところですが、それで終わっては仕方ない。なので敢えて、わたしはこうして個人として身の周りの人に発信しています。
ということで、外には出ていますがいつもよりも抑え気味なので、少々出不精気味です。でも、わかってもらえたら嬉しいです。
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