縦の世界、そして、媒介としての空気

飛行機を降りるときは毎度、肌を包む空気が違うのを感じる。

どこがどう違うのかは説明できない。言葉にならないし、そもそもやみくもに言葉にしてはいけないような気もする。

空気は、その土地のあらゆるものの集合体だ。差し込む太陽の日差しの強さ、湿度、人の汗、食べ物、建物の質感。

そこにあるものすべてが混ざって、その土地固有の何かができあがる。

それが、空気だ。

定義とかそういうんじゃなくて、単純にわたしが空気という言葉に、身体に差し迫ってくる何かという意味を込めたい、ということ。


わたしは、空気を感じるのが毎回たのしい。飛行機から降りる経験を重ねても、毎回たのしい。

空気を感じると、その土地にはわたしがそれまで存在を知り得もしなかった、深い深い、縦の世界が広がっていることを知る。

縦の世界っていうのは、その土地の食べ物を食べて、その土地の日差しのもとで生きる人たちが交わしてきた感情の歴史。

それは言葉にならないもので、空気を媒介として伝わってくる。インターネットで調べていても、本で読んでいても、言葉にならないその縦の世界はどうしても認知するのは難しい。

なのでともすれば、もしその土地に降り立たなければ、わたしにとってはそこは殆ど意味のない土地のままであり続ける。

でもそれが、そこに降り立つ途端に、わたしにとって意味のある土地に変わる。言葉にならないものが空気として身体に降り注いできて、わたしはハッとする。そこに縦の世界があることを知る。

自分が日本で掘り下げてきたのと同じくらい深い縦の世界が、それまでわたしの中で意味を持たなかったその場所に、存在していることを知る。

わたしのなかに、新しくその場所に世界が展開する。

もちろん、その世界の内容を知り尽くすことはできない。でも、そこに世界があることを「知る」ことはできる。

わたしは、この経験を繰り返す。

外に無数に縦の世界があることを知ることが、人生にでどんな機能をはたすかなんてわからないけど、毎回降り立った場所の空気を感じると嬉しく思う。

なぜだかはまだわからない。

もしかしたら、言葉にならない世界を感覚として身体にためる、そのこと自体が喜びなのかもしれないけれど。


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