よく見かける「ふしぎなひと」
わたしがかよっている作業所は、車で自宅まで送り迎えをしてくれる。作業所とは文字どおり作業をするところなのだけど、かよっている人は、まずまちがいなく、精神疾患や発達障害などをかかえている。
わたしもそのようなものをかかえているが、今回の話にはあまり関係がないので、とくに説明することはない。
作業所のおくりむかえの車でいっしょになる、「ふしぎなひと」がいる。
わたしははじめ、そのひとに熱烈な視線をおくられているのかと思ってしまった。
そのひとは完全にわたしをみつめていた。車でとなりの座席にすわった私の方をじっとみつめていた。こちらに完全に顔を向けてしっかりとみつめていた。
わたしはなにかこのひとに熱烈な敵意をむけられているか、好意をむけられているかのどちらかなのだろうと予測していた。だからなるべくその人のとなりの座席には座らないように気をつけた。
今日だってそうだ。
わたしはその人のとなりには座らなかった。後部座席にはそのひととわたししかいなくて、わたしはそのひとのななめうしろに座っていた。そのひとは誰もいない左側をじっと見つめていた。
そこだけ、はるか昔から時が止まってしまっているかのように、静かな空間ができていた。
車のエンジン音はきこえるし、送迎のお姉さんとわたしは雑談をしているのに、その「ふしぎなひと」と、空白のひだりがわにだけ、静寂が存在した。
そのひとはあのときも、わたしを見ていたんじゃなくて、ただひだりがわを見つめていたのか、と気づくと、羞恥が押し寄せるとともに、それ以上に好奇心がさわぎはじめた。
わたしはわたしのすわっている座席から、「ふしぎなひと」が見つめているひだりがわをじっとみつめてみる。でも、わたしには、そこにみつめるべき”なにか”があるとはおもえなかった。
わたし自身のひだりがわをみつめてみる。やはりそこに注意ぶかくみつめるべき”なにか”はなかった。
揺れる車内から見えるのは、わたしの脳の奥でしっかりと処理されたおかげでどうにか識別できる、なんでもない田舎の風景だけだった。
ガソリンスタンド、定食屋、植木、ドラッグストア、標識、それらがつぎつぎにわたしの後ろに吸い込まれていくだけだった。当然、「ふしぎなひと」からも、コンマ数秒の差で似たような風景が見えているんだろう。でも、それだけじゃないなにかべつのものがそこにあるとしたら?
そこまで考えて、わたしは少しつかれてしまった。
「ふしぎなひと」がみているものを知ることはわたしにはできないのだと知った。
そして、それにこそ感じる、ふしぎな魅力については、また「ふしぎなひと」を見つけたときにでも考えればいい。
みんなそうすればいい。
あなたが注意ぶかくみていれば、「ふしぎなひと」はどこにだっている。
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