日記()1721629031

世界史が存在するように、個人の中にも個人史が存在する。人が幼年期、少年期、青年期、壮年期、中年期、老年期を経過するように、世界史も、それぞれの未開期と発展期、そして衰退期を持つ。「僕」=「私」=「儂」がどこにも行けない行き止まりにあるように、世界の歴史も終わりにある。静止して何処にも行かない。世界の様相は老いていて、それでいて幼い。まるでこれ以上進むことを諦めたかのように、成長を止め、「老成した笑いに、幼い顔」をして、世界から退行する。「私」はどこまで来たか?どこを目指して、今どの地点に「居る」のだろうか?終わりと共に始まりはある。「もうすでに終わってしまった世界」その中を、絶えず現れては消える幻影を求めて、あてもなくさすらうゾンビ。はじめからすでに分かっていた。もうどこにも行けないということに。

時間というものは平等ではない。それをつかむ用意のあるものにだけ、時間は開かれ、生命はリズムを刻む。死して硬直した時間の中にあるものにとっては、目の前の1秒も、百年にわたる年月も、等しく同じ「無」だ。繰り返し。同じ刺激に対する「反応」を延々と続けるマシン。昆虫的生。蟲になること。動物と人間。人間と昆虫。その差は限りなくゼロだ。「理性」のあるなし、「言葉」のあるなしにかかわらず、「私」は犬であり、ゴキブリである。「私」は「私」であることを、人間であることによっては証明できない。場合によっては、鳥が、あるいは魚が、「私」と呟く。「私」という意識。私が「私」である同一性の感覚。それはどこから始まるのか。犬だって、蠅だって、「私」という感覚を持ちうるのではなかったか?「私」と/「私でないもの」を区別する感覚。「私」というものが、人間の専売特許でないのだとしたら、人間と「人間ならざるもの」を区別する指標が
「私」の意識の有無によっては決まらないのだとしたら、「私」に含まれる範囲が、人間を超えて広がっているのだとしたら、人間は、いや、この「私」とは、いったい如何ほどのものなのか?

この「私」。あの「私」。その「私」。全ては同じ私であり、全て異なる私である。「私」の自己同一性など、信じる理由が一体存在するだろうか?「私」とは同一であり、散逸の運動である。そのことをなぜ今まで理解してこなかったのか?「私」とは世界が語り始める点。それが、これか、あれか、ここか、それとも、あそこか、それは大した問題ではない。この「私」が語り始めていると同時に、あの「私」がすでに語り終えている。この「私」をとりあえず「私」と名付け、一つの肉体に固定しようとしたのは世界史のどの段階からなのだろう?少なくとも「私」という意識が存在する以前は、人間集団の意識は特定の物に固定されることはなく、この物からあの物へと、自在に流れていたはずである。ここに居る「私」と呼ばれる意識体。それと、あそこにある石、植物、獣などは、「私」と同等の存在であり、同じ「私」から派生した延長であると認識していた。認識するとはこのようなことだ。それは外部と内部を分割し、外界の事物を内面に取り入れ、処理を施すことではなく、この物からあの物へと、絶えず跳び移ってゆく意識の運動―。

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