綿飴

「……どちらのコースになさいますか?」
「8時間ナイトパックで」
「お席はどのタイプで?」
「フラットでお願いします。」
「そのほか、アメニティグッズは付けますか?」
「いいえ、結構です。」
 僕はそっけなく言うと、中学生の頃から使用している恥ずかしい図柄がプリントされた財布から紙幣を取り出し、カウンターのトレイにのせて受付を後にした。荷物はキャリーケースとポーチに収まっているものですべてだ。必要最低限の衣類とパソコン、スマホと学生の頃に作ったキャッシュカードが入った財布。それが今の僕の全財産だった。荷物で膨れたキャリーケースを引いて自分の個室に向かう。扉を開けると、酸っぱい匂いがムッとたちこめ、ちょうど人一人分が横になれるだけのスペースに、黒い人工合革のマットレスと横幅ちょうどのモニターが配置された空間が現れる。僕は荷物を部屋に押し入れ、マットレスの上に横になる。何時間もスニーカーに突っ込んでいた足からは、結構な匂いが放たれているに違いないが、疲労に曖昧になった僕の意識には、どんな刺激も知覚されないようだ。スマホを取り上げて時間を確認する。23時をちょっとすぎている。朝から何も食べていないことを思い出し、急に空腹を感じる。どこか適当な飲食店に入るか、コンビニで食い物でも買おうか迷っているうちに、うつらうつらして取り落としたスマホが前歯に直撃する。痛いじゃないか。僕は誰となく舌打ちし、痛みで意識が目覚めたことで出掛ける気を起こした。体を奮い起こして立ち上がると、財布をポケットに突っ込み、蒸し暑い空気がたちこめる屋外へ再び飛び出した。
 大学を辞めてから今の状態になるまで3カ月ほど経過していた。下宿先から実家に戻った僕を家族は冷ややかあしらった。その頃僕は結構精神的に参っており、速やかに一定期間の休息が必要であったのだけど、そんなことはいざ知らず家族はまるで腫物のように僕を扱った。お決まりのコースである。なんで大学を辞めた、今からでも戻らないのか、親不孝だと思わないのか、授業料が無駄になったじゃないか、これからどうするのか、働くのか、働くとして高卒で何の仕事をするのか、底辺じゃないか、一体どうしたいのか、どうしてこんなに親を悲しませるのか。そんなことを言って家族は僕を非難した。彼らは常に正しく、僕は絶対的に悪かった。彼らと過ごすうちに、日に日に圧力は強くなり、僕はますます疲弊していった。望んでいた休息など、もはや片時も得られるものではなかった。もうこれ以上は耐えられないという限界点で、僕は押し出されるように家を出た。客観的に言って追い出されたのだろう。僕は彼らの前で存在すべきではないのだ。
 コンビニのビニール袋を開け、受付横の給仕コーナーで、買ってきたカップ麺にお湯を注ぐ。湯をこぼさないように個室までそっと歩いて戻ると、マットレスの上で胡坐をかき、十数時間ぶりの食料にありつこうとふたを開ける。すると湯気とともに強いにおいがフロアにたちこめる。僕は一瞬、しまった、こんなもの持ち込むべきじゃなかった、と思ったがもはや後悔しても遅い。覚悟を決めるとずるずると音を立てて麺をすすり始めた。
 隣から物音が聞こえる。咳払いや、身動きにマットがきしむ音が、静かな分だけ強調され、嫌に大きくフロアに反響する。僕は緊張して麵をすする。音を立てないようにそっと麵を舌に絡ませる。しかし、それでも音は外に漏れて、隣の部屋の客は苛立たしげに寝返りをうった。僕の泊っているこの場所は、有名なドヤ街にあり、夜になると仕事終わりの労働者が大挙して泊りに来るのだった。
 僕は、プラスチックみたいな薄いネギが、容器に張った油っぽいスープの上に浮いているのを、ぼんやりと見つめた。ふと我に返り、いったい自分は今何をしているんだろうと考えた。学校をやめ、家からも追い出され、ほとんど何も持たず、知らない街の薄汚れたビルの片隅で夜を明かそうとしている。今日はここに泊まるとして、明日からどうしようか。具体的な将来の見通しなど、全く計画せず家を出てきたのだ。今の僕の寄る辺ないみじめさが、深夜のカップ麺のスープとともに、しみじみと身に沁みた。
 僕はカップ麺を途中で放棄し座卓の上に放ると、マットレスの上でゴロンと仰向けになり、天井の蛍光灯を見つめた。人工的な明かりのもと、室外機の音だけが虫の羽音のようにぶんぶんと唸っていた。僕は今、確かに知らない街のビルの片隅に居るのだが、そのことにひどく現実感がなかった。思えば、いつ頃からだろう、僕の人生にはもう随分長い間、現実感というものが伴わなくなっていた。休学した頃からだろうか?学校に行かず引きこもりだした頃からだろうか?大学に入学した頃からだろうか?それとも、高校生の頃、ひとりでずっと休み時間机に突っ伏していた頃からだろうか?それとも、それよりもずっと、ずっと前からだろうか?
 僕はどこかで道を間違えたのだろう。けれども一体いつ、どこで、何を間違えたのか、何度考え直してみても、どれだけ思い出してみても、全く思いつかなかった。僕は間違った感覚を抱いたまま、引き返すこともできず、この先も歩み続けなければならないのだろう。直感的にそう確信した。僕の進もうとしている先に、どんな未来も、目的も、正しさも、現実感もなかった。雲の上を歩いているような感覚だ。何を掴んでも、どこに歩みだしても、確かな実感がない。僕は綿飴のように、そのうち溶けて無くなってしまうだろう。

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