現実探しゲーム

 私は在宅での仕事をしているため、買い物以外ほとんど自室から出ることがない。私の1Kのアパートはほとんど私の一部になってしまった。朝起きてから、夜眠るまで、毎日繰り返し目に映る、閉め切ったカーテンの私の部屋は、私の体内空間同然で、私は私の部屋という繭の中で一日中を過ごし、そ日々を繰り返す。私は現実空間でも、ネット空間でも、友人と呼べる存在が一人もいないので、仕事がない時(それは一日の大半なのだが)は、ほとんど文章を読んだり動画を見たりして過ごしている。このような生活を続けていると、私の身体は現にこの空間に存在していながら、現実に存在していないような感覚になる。私は毎日、私の部屋であるアパートの一室で目覚め、身動きしているが、果たして私は現に存在しているのだろうか。それを確かめる手段は全くと言ってよいほどない。私は朝、不安な夢から目覚めると、スマホを起動し、SNSを眺め、時間になると会社から支給されたPCの起動ボタンを押す。そして自分に割り当てられたタスクを終了すると、もうそれでその日は終了する。境界があいまいなその日その日を生きていると、果たして自分が生きているのか不安になる。私は生存に必要最低限な活動をしているが、これが人間らしい生活といえるのか、はたして疑問である。
 私は1年ちょっと前、それまで3年ほど勤めていた会社を辞める時、もうこれ以上、生存に必要な最低限のこと以外はしないようにしようと心に決め自室に閉じこもった。私がこの世界に存在し、生きながらえているのも、いわば仕方なしに行っていることであって、自分からは実際的な社会活動に関与してゆく動機など、何ら持ち合わせていなかったのだと、辞表を提出するとき、遅ればせながら理解した。さて、こうして1年ほど、蟄居生活をしてみると、人間何らかの現実と関わって生きていないといけない気がしてくる。私は年若いある日のこと、すべての現実的な問題から手を切って、反現実(反社会?)的な世界の中で生きてみようと想像したことがあった。しかし、その後、現実的な問題(金銭的な問題)から、やっぱり社会の中で生きなければ無理だと判断し、さしたる目的もないまま、急かされるように適当な会社に所属し「社会生活」を営むようになった。しかし、そこで展開されていた営みが、本当に社会(=現実)生活といえるだろうか?私はほとんど社内教育も受けないまま、いきなり客先の事業所へ飛ばされた。わけのわからないまま客先システムをいじくり、問題が発生しては意味がわからないまま始末書を書かされた。年に2.3回も顔を合わさない上司と面談しては、今後3年後のキャリアプランを話し合った。ほとんど昇進の見込みがないとわかってながら、同じ職場の不器用な社員のことで、自分はまだましな方だと同僚と陰口をたたき合った。これらのことが現実感を伴って、私の身に迫って感じられたことが一体あっただろうか?確かに、これらの問題は、今やらなければならない実際的なタスクとして、私の目前に舞い込んでくることはあった。しかし、それらが私の生きている現実から地続きのものとして、確かな質感を伴って感じられることはなかった。それは私の来歴や実際の生活環境からは全く関係のない、どこにも根差さない言葉だけの現実として、私の意図とは関係なく私に押し付けられた現実だった。世間一般で現実的と言われている生活が、まったくこの私・・・にとって現実的でない。生きるために必要なことであると理解しているが、そこで依拠される論理や演じられる茶番は、私の生の実感からみてリアリティを伴って迫ってくることはなかった。それは、私とは関係ないどこか遠いところで話し合われ決定された空虚な現実生活の強制であり、その擬態化であった。私は絵に描いた餅を喰って生きているのか。
 トンネルを抜けたらまたトンネルでした…ではないが、偽りだらけの社会生活から手を切っても、その後もまた偽りの生活でしかなかったようだ。私は社会から退いた後も、現実的な人間関係を作れないまま密閉された瓶の中で空虚な生存を続け、こんな生活にもいつか終わりが訪れるだろうと期待し、虚しく呼吸を続けている。そうこうするうちに三十になる。まったく笑い話にもならない。私はちゃんとした人間経験を積めないまま年齢だけ重ね、青臭い葛藤を抱えたまま中年に差しかかろうとしているのだ。心底ゾッとする。いっそこんなどうしようもない人生はケリをつけてしまおうか。といって、そうする勇気もないのだが。
 私の人生はどうでもいい。ここで重要なのは現代の生存において、現実と接続する回路が決定的に断たれているということだ。ネットやニュースで目にする現実も、私の生存とは直接関係ない虚構であり、職場や仲間内で実際に演じられる社会生活も、その再演でしかない。社会の内にも、外にも、現実はない。現実に触れようとして、社会から離れようとも、あるいは反対に社会の中に入ってゆこうとも、そこに現れるのは、現代の生存の条件では、虚構でしかありえないのだ。いったい本当の現実はどこにある?私は今どこにいるのだろうか?みんな現実の中で生活しているのだろうか?おーい、みんな生きているかい?だといいんだがなあ。私は現実の中で生きていない。瓶の中で今にも窒息しそうだ。

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