祈り

書いたまま、というか書き途中のまま未公開になっている記事がある。
2020年12月21日から始まり2021年1月8日、更にその先2021年1月22日付近までの出来事がざっと綴られている。
最初は紅白出場決定したら公開しようかと思っていたが、さすがに重すぎてそのときのハッピーな空気感の中投稿するものではないなと思い、お蔵入りとなった記事だ。
もう一生日の目を見ることはないだろう。

さて、時は巡って2022年1月7日。
その日に発売された某誌の某インタビューを読んで、1年越しにそのときの気持ちが鮮明に蘇った。
そのときのことを断片的に聞くことは多々あったが、「皆さまのおかげで元気に戻ってくることが出来ました」に至るまでの葛藤をちゃんと聞いたのは初めてだ。

私は、愛する人には無駄な苦しみを味わって欲しくない。愛する人の苦しみは出来る限り排除して必要最小限にしてやりたい。
例えば、「舞台の稽古で極限まで追い詰められる」とか「ドラマのオーディションでどうしても上手くいかず葛藤する」とか(※あくまでも例え)は、言ってしまえば“必要な苦しみ”だと思う。己の成長のため存分に苦しめば良いと思う。
だがしかし、「防ぐことの出来ない疫病に罹る」「根拠のない噂やデマに振り回される」「他人からの適当な言動に傷付けられる」などは“受ける必要のない苦しみ”だ。
愛する人がこれらの様なことで苦しんでいるなら、今すぐ私が全て排除するか代わりに受けてあげよう。

とは言うものの、いざその状況になったとき、ただのオタクである私には、CDの予約を増やすこととソロ写真を購入することYouTubeの再生回数に貢献することとただただ祈ることしか出来なかった。
何故こんなにも今すぐに代わってやりたいと思っているのに私には何もすることが出来ないのだろう。
悔しかった。
ただただ祈りを捧げるだけの18日間がどれほど悔しいものだったか。

2021年印象に残った言葉のひとつに「ああいう試練も、耐えられる人にしか訪れないと言われているので、今となっては僕でよかったかなと」(「with」2022年1月号より)というのがある。
これはこのバカデカい壁をブチ壊すことの出来た今だからこそ言えた言葉だろう。

明日何が起こるかなんて誰にもわからないし人間誰しも生きていればどうしようもなくしんどいこともある。
「神は乗り越えられる試練しか与えない」と言うけれど、それは今ここに生きている人は試練を乗り越えられた者だからだ。
これは試練を乗り越えられた者の言葉であり、試練を乗り越えられず散っていった者は言葉を残せない。
誰もが心身共に健康で明日を迎えられる保証はない。

当時は幾度となく「もしも」のことを考えた。
いや、今も偶に頭を過ぎる。
またいつ何時このようなことが起こるかはわからないし、また無事に戻ってこられる保証はないのである。
別にこれは誰に限った話でもなく、私も明日交通事故で死ぬかもしれないし。親しい人が急に倒れるかもしれない。そういうこと。

だからこそ、ただのオタクは愛する人に対して毎日のように「一生健やかで幸せに過ごして欲しい」と言うのだ。

何も出来なかったあの日々からたくさん考えたけれど、結局オタクに出来ることはただただ祈ることしかないのだという結論に落ち着いた。

何も出来ずただ祈ることしか出来なかったのは悔しいし、でもまた同じようなことがあったとしても私は変わらず祈ることしか出来ないだろう。
それでも、「ファンの支えがあって」とか「皆さんのおかげで」とかを聞くと、こんなオタクでも間接的に微粒子レベルの力にはなっていたのかもしれないと思うことが出来る。
いや、実際に力になれていたとは到底思わないが、悔しかった自分の思いがちょっとでも救われるような気がして、そう思うことにした。

1年前は、そのときのことはきっとほとんど話してくれないのだろうな、あまりそういうこと語るの好きじゃなさそうだしな、なんて思っていたが、1年かけてそのときのことを知ることが出来て、悔しい思いをしたオタクはちょっと救われました。
たくさんお話してくれてありがとう。

これからもたくさん美味しいごはんを食べてよく眠りバカ高い服をお召しになっていて下さい。心身共に健やかで毎日楽しく幸せに過ごして下さい。
オタクはこれからも祈り続けます。






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