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ピンクとわたしと黒/「好き」ってなんだろう

幼少期のころ、1番好きな色はピンクだった。
1番好きというより、ピンク以外好きじゃなかった。
持ち物も服装も全部ピンクがよかった。

中学校にあがると、ギャルになった。
相変わらずピンクが好きで、ピンクと1番合う色は黒だと思っていたから、ピンクと黒のものばかり持っていた。
ベットシーツもクッションも筆箱もケータイも全部ピンクと黒だった。

おとなになってからは、ピンクが好きだったことをなぜか忘れていて、というか他の色もすきになって、自分のテーマカラーがピンクじゃなくなっていた。

24歳?くらいのころから、自分のアイデンティティに何度も何度も悩み始めて、幼少期のころのことを思い返したりした。

自分のすきなものはなんだったっけ?
自分がよろこぶことってなんだったっけ?
自分が譲りたくないものってなんだったっけ?

そうやって考えているうちに、27歳くらいのころ、ピンクのことを思い出した。

「わたしはピンクがほしかったんだった」
「ピンクをだれにも譲っちゃいけない」
と謎の焦燥感に襲われて脳が暴れた。

わたしはそのときから「ピンクが好きです」と宣言することを決めた。

なぜ決めたかというと、自分の「好き」を言葉にして伝えることは、わたしにとってすごくすごく重い意味を持つことになるから。

少し脱線するけど、「好き」がなにかわからないという悩みをずっと持っていて、わたしは人に対してももちろん、自分以外のなにかに対して「好き」と言うことにすごく抵抗があった。
(とはいえ、好きという言葉を言いたいときもあるし、それ以外の表現が難しいときもあるから、自分の中では「好き」と「すき」で表記を分けてる。)

なんでこんなにも「好き」がきもちわるいんだろう。
なんだか人間のエゴがぎゅっと詰め込まれたみたいな、息が苦しくなるような言葉に思えて、モヤモヤしていた。

あれこれ考え巡らせてるうちに、自分の中の感覚では「好き」≒「欲しい」だからだって気づいた。

友だちが異性のことを「好き」というと、ああ、この人はその異性を欲しい、と思っているんだなと内心では解釈するし、自分にとって「好きな人」と「すきなひとたち」は全く別の意味になる。

そういうわけで、自分の「好き」を言葉に出すことは、「欲しい」を相手に伝えることになる。
それってすごく、なんというか、自分のエゴを丸出しにする、醜くて、人間みの強い行為なわけ。
だから、わたしにおいては、なにを「好き」というかは、よく吟味して、決心をして、公言しないといけない。

「わたしはピンクが好きです」

これを公言し始めてから、自分の持ち物もピンクが増えていったし、周りの友だちも「ゆいちゃんはピンクだよね!」って言ってくれるようになった。

去年、28歳の誕生日を迎えたとき、ありがたいことに、たくさん人から花束をもらった。
その花束が全部ピンク色だった。
わたしはそのとき「わたしはピンクになれた」と確信したと同時に「もうピンクに執着しなくても大丈夫だ」と、安心もした。

今年2024年は、もうピンクを卒業しよう、と思った。
本当に本当になりたい色を考えた。
「黒」だった。

黒になろう、と決めてから、しばらく過ごしてみたのだけど、ピンクへの執着をやめて卒業したというのに、わたしが買うものはピンクばかりで、わたしに似合うのもピンクだった。

ピンクに1番合う色が黒なら、わたしの周りにピンクが集まってくるということは、わたしが黒になれてると思っていいのかな?なんて思いはじめた。


この話には何のオチもないから、ここでおわり。

明日もいい日になりますように⭐︎

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