記録 一月十二日/怠惰な人間なりの奮闘

思いのほか軽やかな木曜日だった。
いや、今週は三連休だったから、正確には水曜日というべきか。

何日か前は鬱を思い出すような目覚めの感覚の悪さで先の不安がよぎったものの、その後は問題なく起きれている。
日々のルーティンを固めるべく手探りしていた数日間。通勤をはじめて1週間で、ついにフィットする形が見えてきている。

混雑のピークを避けるため始業の45分ほど前に着く電車に乗る。通勤快速は身動きとるのも難しいほどに混むから、多少時間はかかっても快速を選ぶ。

朝の電車の中ではニュースに目を通すことにした。頭も気持ちもイマイチのってない状態でもできることがそれだったから。今まではちゃんとみた方がいいなと思いつつ1秒たりともニュースに触れてこなかったけど、強制的に時間が用意されるようになると案外すんなりと生活の中に取り込むことができた。出社後は、休憩室で本を読む。これも今までどうにも習慣化できずにいたことだ。

昼はオフィス近くの公園で弁当を食べて、ついでに少し散歩もする。他の昼休憩中のサラリーマンと見受けられる人たちも、みな思い思いにストレッチ器具で体を伸ばしたり、素振りをしたり、噴水を眺めたり、どうにかこうにかして気分転換をはかっているようで、そういう姿は見ていてなぜか気分がよくなる。

帰りの電車では、日記を書くことにした。家に帰り着いてしまうとどうにも腰が重く、もっと文章を書きたい、上手くなりたいと思う気持ちはあるのに手につかない。文章以前に、私は家だと何にもできない。家でできる比較的生産的な行いは掃除洗濯料理といった家事くらいのものだ。もがこうとも、できないものはできない。もう意思の力に頼ろうとして自分に幻滅する幼さからは脱却することにした。頼るのは、仕組みの力だ。


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坂口恭平は『自分の薬をつくる』の中で躁鬱人には日課が効くと言っているけれど、それを今まさに体感している。散々恐れていたフルタイム勤務だったけれど、今はそれが程よい緊張感になって生活に締まりが出てきている。仕事という一つの大きな柱ができたことで、それ以外の日課(たとえば早寝早起き、日記、読書)もうまく軌道にのりはじめた。

この「程よい緊張感」というものは今後の自分にとってキーポイントになるかもしれないと感じている。たとえば自転車に乗るとき、自分の体力以上のスピードを出そうとしたら苦しいのはもちろんだけれど、それと同じくらい、遅すぎるペースで進もうとするのもまた難しく、ふらついてしまう。今までの自分は、特に去年は、恐怖心からゆっくり進もうとしすぎてふらついていた(=緊張感に欠けていた)状態だと言える気がしている。


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「自分をすぐ許せる人間は大した仕事をしない」
宮崎駿

「緊張感」だとか「いい仕事とは」なんて言葉が頭に浮かんでいた午後5時、トイレ休憩がてらスマホを見ていたら飛び込んできたのがこの言葉だった。

私は良くも悪くも、諦めがよすぎる節がある。「自分を許す」ということを意識的に行ったことはないけれど、これまで多くの場面で諦めて(≒自分を許して)きたのではないか、と思う。だからなんだか少し、耳が痛かった。

効率だとか向上だとか、求められると窮屈に感じてしまう。何かを成した達成感も、確かにいいものだけれど、それを得るための労力やなんかと天秤にかけると、そこまでして何かを達成したいとも思えない。つらいのも苦しいのも面倒なのも嫌だ。逆境に燃えるなんて、さらさらない。
それよりも、穏やかな時間、たのしい時間がずっと流れていれば、そしてそれを人と共有できればそれだけで満足という、能天気で怠惰な人間なのだ。基本的には。

そうはいっても、怠惰であると同時に真面目でもあって、やるからにはいい仕事をと、どこかで思っている。かなり面倒くさい性質をしているなと思う。

私はどう頑張ったって宮崎駿みたいなストイックな人間にはなれないから、怠惰な人間なりの力の出し方を、自分の土俵を、模索していく他ないのだろう。


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