鬱と躁と日常と
最近また自分の人生が大きく動き出した気がする。まず、大学に合格した。希望していた心理学部に合格をいただいた。嬉しかった。ずっと行けてなかった塾に合格の電話を入れたとき、本当に喜んでくれて、嬉しかった。集団の授業に馴染めずにずっと授業に出られなかった。心配の電話を何回もかけてくださった塾の方には感謝している。怖かったけど。そして、また新しくアルバイトを始めた。デイサービスの職員だ。介護の次は子供を支える側にまわった。自己紹介の時に「(本名)先生です」と紹介されて、照れてしまった。私はまだ何者でもないのに。これも嬉しかった。誰かの人生の役に立てたら良いな。
主治医に、「躁状態の方が、全部が上手くいくから良いと思ってしまうよね」というようなことを言われて本当にそうだなと思った。授業に出られるし、土日全て遊びに行くことができる。アルバイトをする余力も出てくる。人生が楽しい。身体が軽い。全ての鎧が消え去ったように、人生が前向きになる。普通の人って、こんなに人生が楽しいのかと思う。実際は過剰な喜び、爽快感なのだけれど。それでも私は、いつも勘違いしてしまうのだ。悲しい。悲しきモンスターだ。感情のジェットコースターに乗っている。これがどんなに苦しくて辛いことか、世界中の何割がいたく共感してくれるのだろう。自分の人生が思い通りに動かせない。自分の機嫌を自分で取れない。こんなんで、私は大人になれるのだろうか。自分で自分のことを認めてあげられなかったら何の意味もないのに。私が私である理由を自分で見つけられなきゃ意味がないのに。悲しいよ、苦しいよ、辛いよ。躁状態が終わりつつある今、ひしひしと現実を感じてどうにも辛い。煌めきが失われ、身体が音を立てて崩れて行く。砂のようにサラサラと、しかし轟音を立てて崩れる。恐怖。私が私ではなくなっていく。また苦しみが襲ってくる。
雨の降った金曜日、私は泣いていた。朝起きると、涙で目元がびちょびちょだった。ずっと仲良くしていた友人が、私の元を離れる夢を見たからだった。雨と涙と、鬱の始まり。冬のつめたさ。その日は学校へ行った。参加しない卒業アルバムの写真集めに参加していた。参加してはいたけれど、どうにも写真を集める気持ちにはなれなくて、チェンソーマンを読んでいた。いつもは面白く読めたのに、その時は何も感じられなかった。ただスワイプしていく。何もない、無。
ずっと怖い。私は自分のことがずっと怖い。何者なのか、私は何者なのか。この季節になると、すごく自殺したくなる。首を吊って失敗した後、痛む首と顔を押さえながら、泣きながら母親を起こしたことを、私は今でも鮮明に覚えている。
この季節でいいことは、アイスとミルクティーが美味しいことだ。そういえば、ミルクティーブレンドというJILLの香水を買った。いい香りだ。これを纏って、また私は日常生活をそつなくこなしていこうと思う。
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