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第1回勉強会「障害」ってそもそも何


初めての勉強会!

ポコチャという配信アプリで私、一篠美羽の枠にて勉強会を始めてみました。
そもそも私は心理学や教育学を学んでいて(それはまた別記事にしますね♪)それをみなさんにシェアしたいと思い発信しています。
ポコチャでそれに共感してくださる方が来てくださるようになったので勉強会を定期的に開催していこうと計画中です«٩(*´ ꒳ `*)۶»
第1回目は「障害」ってそもそも何?をみんなでディスカッションしていきました!
個人情報は伏せつつ備忘録的に書いていきます。

障害の表記はどうしている?

まずみなさんの障害に対する概念をお伺いするのにわかりやすいかと思い「障害」の表記についてお話ししてみました。
「障がい」「障害」「障碍」これらを使われているとのことでした。中には障害という言葉そのものが嫌だと仰られる方も。

「障がい」を選んだ方は目にしたことがあり、感覚的に選んだ。「害」の字が嫌とのこと。
「障害」を選んだ方はそもそも社会の方に障害があるからとのこと。
「障碍」を選んだ方は職場の研修で使いがちだからという理由でした。また、障碍は単なる法律上の区分であるとも仰っていました。
障害という言葉が嫌という方は、障害も含めて個性だからと仰っていました。
結論から申し上げるとこれらに絶対的な答えはなく、こういったことを考えること自体に意味があると私は考えています。
全ての意見が正しいと思います。
ここにその人の「障害」へのイメージや考え方が表れているように思います。

ここまで読んでくださった方は、私は「障害」という表記をしていると気付かれたと思います。
ここで私が「障害」と表記する理由、「障害」への概念をお伝えさせてください。
私が「障害」と記そうと思ったのは大学時代のある恩師のお話が心に残っているからです。

車いすに乗っていた人がいたとする。目の前に階段がある。
そうすると誰かに手伝ってもらって移動することになる。
でも全てスロープだったらどうなる?
いわゆる、健常者と呼ばれる人も車いすの人も自由に上り下りができる。
車いすの人だけでなくベビーカーを押している人も通りやすくなるし、杖をついている高齢者も上り下りしやすい。怪我をして松葉杖をついている人にとってもオープンだ。
階段で困る人がいてもスロープになって上り下りできなくなる人はいない。
つまりいわゆる障害者とされている「人」に障害があるのではなくて、障害があるのは「社会」の方だ。
障害者と呼ばれる人はその社会の障害を受けやすい人なんだ。
だからこそ「障害」と書く。
主語は「人」ではなく「社会」だから。

これは障害を考える人全てが持っておかなければならない概念だと感じた。
それと同時に障害があるのが「社会」なのであればもっと障害を減らすために改善できる余地があるとも感じた。
私は心理を学んで人に伝える人間である以上、よりよくなっていく未来を思い描いて、理想論だと言われても綺麗事だと言われても「よりみんなが暮らしやすい」社会をイメージして提唱し続けたいと心に誓っている。
もちろんスロープは一例に過ぎない。

実際、このお話をした時にもユニバーサルデザインや工業に造詣のある方から「現場では予算の関係上スロープよりも階段が優先される」というお言葉もいただきました。その費用を誰が出すのか、そういった現実的な問題が省かれた例え話で地に足がついていないように感じるられるのかもしれないと私もこの文章を書きながら改めて考え込んでいます…。

ただ、こういった概念が広くなれば
例えば就労に関しても朝出勤して8時間ないしそれに加えて残業をして夜帰宅するというのが広く浸透していますが、もっといろんな選択肢が出てくれば障害者雇用でなくても仕事できる人が増えるという話にも発展しました。
外に出ることに困難が生じている場合であれば在宅で、通院の必要性があれば短時間でもしくは休みの日を多く取れるような働き方で、などなど。
もちろん働き方は多様化していっていますがもっともっと多彩な働き方があっていいと思うのです。
そうすればいわゆる障害者だけでなく介護をしながら、育児をしながら、学びながらなど様々な背景を持った人が働くことが可能になるかと思います。
別記事に書いていこうかと思いますが、私は就労は生活費を稼ぐ以外にもたくさんの意味を持つと考えています。
こういった部分もみんなでよりよい社会にしていきたいですね。

私はここで「みんな」「私たち」というような言葉を使っていますが、そういった言葉を使うときに赤ちゃんから高齢者まで、健常者も障害者も含めていろんな人を想定して使われる世の中になっていってほしいと願っています。

障害者手帳についてどう思う?

障害の話をしているときに切っても切り離せない手帳について今回も話題に上がりました。
当事者にとってはむしろ表記よりもこういった現実的な問題の方が大きな関心があるという意見も。
学校現場でお仕事されている方からは「障害者手帳を取得することを保護者に促すことが難しい」という声が上がりました。
ご家族が障害手帳を取得された方も納得するまで時間がかかったとのこと。
当事者の方も家族からはいい顔をされなかったとのことでした。

前提として押さえておきたいのは手帳は取得するもしないも自由であるということ。
またそれを開示するもしないも自由であるということ。
一部税金関係で雇用されている会社に知られる場合もありますが本題から外れるのでここでは触れません。
障害者手帳を持っているからといってその後一生持ち続けなければならないわけではなく、また関連支援を受けるとき以外には開示しないという自由もあります。

それでもやはり取得にハードルがあることも事実なのです。
まず障害を受容できるかどうか、そして本人だけでなく家族もできるかどうか。
また、障害そのものを受け入れることができても手帳はレッテルを貼られるような気持ちになるなどここには書ききれないほどの繊細で複雑な葛藤がここにはあるのです。
手帳を取得された方の中にもこの段階で悩まれたという方や、ここで取得することを辞めたという方も多いと思います。
もちろん取得しないという選択も自由ですから何も間違いではないのです。

ですが、本当は手帳を取得しそれに関連するサービスを受けることでより生きやすくなる人が取得できないという場合には心が痛むことがあります。
先述した通り障害者は「社会」にある障害を受けやすい人なのですからそれに対する合理的配慮を受ける権利があるのです。

合理的配慮の線引き

先ほど出てきた「合理的配慮」。
そもそも「合理的配慮」とは、

「障害者が他の者と平等にすべての人権及び基本的自由を享有し、又は行使することを確保するための必要かつ適当な変更及び調整であって、特定の場合において必要とされるものであり、かつ、均衡を失した又は過度の負担を課さないものをいう。」

障害者の権利に関する条約

と定義されています。

この合理的配慮が事例ごとに曖昧なのです。
もちろん臨機応変に対応していくというのが理想ではあるのかもしれません。
ただ当事者の方、現場の方の声を聞いていると難しいものが見えてきました。

まず当事者の方としては配慮を求めすぎるのもよくないかと思い遠慮してしまうといったことが出ました。
さらに、大学で障害支援を受けた際にもそれぞれの科目の先生に対応が任されていたため支援の程度や内容がまちまちだったとのこと。

また、学校現場で対応されている先生からはある生徒に配慮を行うと「あの子には配慮や介入があってうちにはないのですか」とクレームがくることが多々あるとのこと。
そして、高校以上になり、単位の問題が絡んでくると例えば身体障害を理由に実習が行えない場合実習の単位を許可していいのかどうかという問題も出てくるとのこと。
個人的に許可したいと考えていても単位や資格は社会的信用を保つ必要があるため社会的に認められないという場合もあると。

非常に難しい問題だと感じました。
ここで一言で答えを出せたらどんなにいいだろうと考えながら文章を打ち込んでいますが残念ながら私は万能ではないのでここではこういった話題が出たという問題提起だけにしておきましょう。

今後の課題

今後の課題として話題に上がったのは大きく分けて2つ。
1つはカウンセリングを保険適応にという点。
2つ目は家庭環境についてでした。

カウンセリングを保険適応にしてほしいという声がありました。ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが心理学領域の資格は公認心理師という国家資格ができましたがそれまで民間資格でした。
国家資格化したのは5年程前、徐々に普及し始めています。
他の心理先進国は一般的に想像するようなカウンセリングだけでなく音楽療法やABAをはじめとする療育に関しても保険適応としているところもあります。
個人的には日本もこの流れに沿っていくのではと考えていますが現状カウンセリングを受けるとなると1回で5000~10000円くらいでしょうか(自費でないのでカウンセラーによってバラバラ)かかってきます。
また、カウンセリングは単発で終わる方が珍しく、費用の面で断念している方もいらっしゃると思います。

家庭環境についてのディスカッションも話がつきませんでした。
まず論点に上がったのは「家庭環境がよくないということに気がつけない人がいる」ということです。
家庭環境の良し悪しは客観的に判断しずらく、ここでは家庭環境の定義付けにはあえて触れません。
ですが、現場で働かれている方から上がった声として「明らかに家庭環境がよくない(例えばDVが日常化している)ような人であってもそこに疑問を抱けない人がいる」というものがありました。
私たちはこれを2つの場合に分けて考えました。

1つ目は本当に気がついていない場合です。
家庭というのは非常に閉鎖的であり他の家庭と見比べるようなことはなかなかできないのが現状です。
そこで例えば日常的にDVがあってもそれが普通だろうと思い込んで疑問を抱かないのです。
テレビのアニメやドラマを見ていて家族団欒の様子を見てもそういう場面を挿入しなければ物語が進んでいかないからわざわざそうしているだけで現実では誰もそんなことをしていないと感じる方がいるとも以前聞いたことがあります。
そのくらい家庭というのは閉鎖的で自分で気がつけないことがあるのです。

2つ目は「抑圧」してしまっている可能性についてです。
ここでフロイトの理論を元に考えました。
問題が大きすぎて意識にあげていると耐えられないため無意識の部分まで抑圧するのです。
本人の中には本当はストレスになることがあっても抑圧してしまっていれば本人にとっては意識に上がってこないのです。
また、これを繰り返しすぎると抑圧する癖がついてしまうのではないかという意見も出ました。

これらを学校など公教育で解決しようとしては制度として破綻してしまうため、家庭の問題には公教育はなかなか介入しずらい。
そこで当事者が「私はこういう家庭で育ち、振り返るとこう感じます」といった声を声をあげていくことが大切なのではないかという意見が出ました。
私もこれらの話を聴き、考えていく中で何か家庭環境を自覚できるようなコンテンツなど作れないかと思うようになりました。

最後に

2時間の配信内容、文字にするとかいつまんでも4500字を超えるボリュームになりました!
これだけ濃いお話を一緒にしてくださったみなさんに感謝、そしてここまで読んでくださったあなたに感謝しています😊
これからもいろいろな勉強会開いていけたらと思っています。
私もまだまだ未熟ですがたくさん学んでいきたいと思っていますので一緒に様々なこと見聞きして考えましょうね♪

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