おばけについて
私はなぜ おばけなのか
気付いたときから私は、自分の存在というものに違和感を持っていた。
自分はこの社会という場所では価値の無い異物であり、ここに関わる事はできない。そんな風に感じていた。普通の人とは違い、決定的な何かが欠けている。自分に魂というものが無いような気がする。みんなと同じ場所に居るのに自分はそこには居ない、という感覚を、なんだかおばけみたいだなと思ったら、とても腑に落ちた。私はおばけだ。そういう風に言語化できたとき、すっきりした。
「欲しいものはない。やりたい事はない。希望はない。いつ突然死んでもいい。消えてなかったことになったらいい。自分の存在がこの社会で無意味だ。」とよく考えている。
自分がいなくなる、という考えには安らぎさえある。
生きづらさや苦しさを感じているが、何かを失ったり、何かがままならなくて、辛くて、苦しくて、逃げたくて、心を病むのとは違うのだと感じていた。こんな考えを誰かに打ち明けたところで、異物として見られるだけで誰も理解しないだろうと思ってきた。
なぜなのか、と悩みながら、心理学書を読んだり、精神病について調べたり、生きづらさについての本を読んだり、自分についてわかったようなわからなかったような日々が続いていた。
そしてそれをなんとか形にしようとしたのがアパートメントの連載だった。
1月29日に橋本治さんという小説家が亡くなった事がきっかけで、Twitterに流れてきた、高橋和巳著「消えたい」という本についての橋本治さんの解説文を読んだ。
解説は橋本治さんの母親から受けた被虐体験について書かれていて、彼の「消えたい」と感じた体験と、本のタイトルの「消えたい」という言葉がひっかかり、kindleで購入し読んだ。
虐待を受けた人はそうでない人と別の世界を生きており、精神科医である著者はそういった人の事を「異邦人」と読んでその世界を解説している。被虐待者は「死にたい」ではなく「消えたい」という。母子間で愛着関係がつくれないと、社会的存在が不安定になり、それが生きづらさに繋がる。要約すればこういった内容だ。
この本と自分の体験を照らし合わせて、点と点が繋がったような気づきがあり、妙に冷静に自分の事を眺めてみる事ができた。
異邦人は社会的存在が不安定であるから、もともと「いつもの自分」があやふやで、自分の存在が頼りない。そのために離人症を起こしやすい。日常的に起こしている人もいる。自我体験について、彼らは次のように語る。
「自分にはいつも生きている実感がなく、何かふわふわしている」
「自分が自分でないような気がする」
「自分が昔から存在していたのかどうか確信がない」
(高橋和巳『消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』)
これはまさに私のことだ。しかし、その原因が被虐待者に多いという事については考えた事がなかった。自分が被虐待者だと思ったことがないからだ。母が明確に私の心身を傷つけようとして暴力を振るっていたという記憶はない。虐待とはそういう事なんだと思っていた。
しかし私は母から何も教わらなかった事を知る。この世界はどういうものか、嬉しいとは、悲しいとは、美しいとは、優しさとは、慈しみとは、痛みとは、そういう事を母から教わる事がなく、またそういった事を教えてくれる大人も身近にはいなかった。
私は6歳のころに知らない人間に拉致・性的暴行を受けた事があり、幼かった私はその事を母に話しているが、母は私の話を信じずに「気のせいだ」と言った。私のことは母にとってどうでもいいのだ、と感じた。
子供のころ私は誰からも守られなかった。抱きしめられた事がなかった。十分に甘えたことがなかった。母とはほとんど対話をしなかった。考えている事を話し合う事が無かった。大抵母は「口答えをするな!」と私に怒鳴り「口答えをしたら叩く!」と脅した。私が唯一母から学んだことは、怒りと、怒りによる支配についてだった。
母の子への無関心の事をこの本では「心理的ネグレクト」とよんでいる。
13歳くらいのとき、友達のお母さんと会う機会があって、その関係を目の当たりにしたとき、親子関係ってこんなにも優しいものなのか!?と驚き、ショックだった事を思い出す。私は友達のお母さんに優しく背中をさすられて、そしてぼろぼろと泣いたのだった。その時自分ではなぜ泣いたのかもわからなかった。自分の家庭環境が普通ではなさそうだと気付き始めたのはこの頃だっただろう。
親に存在を祝福されず、感情がわからず、世界に放り出され、ひとりぼっちだった。だから私は自我がなく、存在の不確かさや、違和感を持ち続けた。
普通の人が生きている世界とは別の世界にいる、とはそういう事なんだろう。
そうか、だから、私は「おばけ」なんだ。
ぬくもりは どこに
私は母と愛着関係が作れなかったけれど、ほんとうに母は私に無関心だったのだろうか。
母から聞かされた祖母の話がある。私の祖母は中国残留孤児だった。祖母は、親兄弟と共に満州にいたが、戦後、彼女だけ帰国ができなかった。世話になっていた中国人の家族が祖母を監禁し、帰国させないようにした、と聞いた。祖母はその家族の息子である祖父と無理やり結婚させられ、5人の子を産んだ。祖母達は大変貧しく、祖父は家族の中で暴君だった。食事は祖父だけにたっぷり”献上”され、子には十分に与えられなかった。体調が悪い時に、病院に連れていかれなかったせいで母はある身体機能を失っている。そういう家庭で母は育ったのだ。
母が20歳前後の頃、祖母は子達と共に中国から日本に永住帰国・帰化した。母は夜間学校で日本語を習い、父と出会い結婚し、姉と私を産んだ。父はギャンブル好きで働かない人間だった。家では大体いつも母と父は言い争っており、父は母に借金を押し付けたうえ浮気をして、離婚した。
母は日本語を違和感なく話せていたように思えるが、慣れない文化の中で家庭を支えるため必死に仕事をし、父との関係もあり、大変苦労をしていた。子供をかまっている余裕が無かったし、接し方も知らなかった。
「誰が食べさせていると思っているのか」
「美味しいものを食べられるあんたは贅沢だ、恵まれている」
「あんたは何もできない不器用な子だ」
今思えばそういった私に向けられた言動の端々に、母の受けた傷跡が見える。しかし、アトピー、アレルギー、喘息、特殊な病など病弱だった私をよく病院へ連れて行ってもくれていた。唯一母が喜んでくれたのは、私が料理をつくった時だった。嬉しかった。それから私はよく家族のごはんをつくるようになった。
祖母が亡くなったとき、母は「お母さんは不幸な人生だったね、ごめんね」と言い、誰よりも号泣した。感情の事がわからなかったせいか、私はその時一滴も涙が出なかった。
どうしようもなく、やりきれない気持ちが、ただ、ぽっかりした悲しさと 寂しさが、在る。母や祖母の事を考えると胸が苦しい。
母はただ 必死に生きようとしていただけだった。
子供の頃はそういった事を全て分かってはいなかったけれど、
私もまた 必死に生きようとしていた。
おばけ とは
母親との愛着関係が持てなかった人とそうでなかった人の違いはどういったものだろう。本からいくつか抜粋した。
ー彼らは感情を共有できずに生き、社会的規範は守っているが、その対価である安心や信頼を知らない。だから、社会的存在にはなりきれず、孤立した、不安定な存在のままで、自分がいるのか、いないのか、いつも疑問である。
ーいかに生きるべきかを考える前に、生きているのかどうか、を疑ってしまう。だから、異邦人が、普通の人が熱心に人生を論じているのを聞くと、どうしてそんなに夢中になれるのだろうと不思議な距離感を感じてしまうようだ。
ー愛情が機能する「普通の世界」=心理カプセルの内側と、愛情が機能しない辺縁の世界とである。彼は辺縁の世界に生きながらも、普通の世界につながろうとして、二つの世界を重ね合わせようとしてきた。それが苦しみだった。
ー愛着関係はごく当たり前の母子関係なので、誰もそれが「ない」ことを想像できない。これが、多くの人が虐待を理解できない最大の理由である。
(高橋和巳『消えたい: 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』)
おばけである私は、「自分が普通ではない」という理由で苦しむ。
そこには3つの軸がある。「母との関係」「性被害の経験」「社会との関わり」だ。
自身を母から肯定されず、緊張と不安の中で育った私は、自我というものが常に不確かだった。社会規範というものは、小学校など集団で過ごす中で知っていった。人はどういった時に喜ぶのか、どういった時に悲しむのか、どういった時に嬉しいのか、というものを、周りの人を観察する事で知っていった。
人がどんな表情で何を語り、何を欲しているのか、どう反応すればいいか、という事はわかるようになったが、自分がどう思って、どう感じて、どうしたいか、がわからないので、相手の望むように振舞ってきた。人と接するときは無意識にそうやってきた。そこには自分がいなかった。そこにあったのは、誰かの考え、誰かの意見、誰かの反応、誰かの癖だった。
だから人と居る時はとても緊張していたし、ひとりで居る事をもっと好んだ。おばけは必死で人間のフリをしてきた。
6歳で性被害に遭って以来、16歳までその事を全く思い出さなかったのだけれど、無意識のうちに影響をうけていた。ブラジャーをつけることに非常に抵抗があったし、スカートも全く履かなかった。自分が女性である事を示すことに嫌悪感があった。小学生の頃、歳の離れた従兄が狭い場所で近づいてきたとき、突き飛ばしてしまったり、体の大きな同級生が悪ふざけで迫ってきたとき、パニックになり「近寄るな」と言いながら相手を殴った、といった事があった。その同級生に対しては大変申し訳なく思う。そして未だに男性と関わる事に苦手意識が強く、恐怖心がある。
13歳の時、2つ上の姉の日記を偶然読んだ(共有のPC内にデータがあった)。ネットで知り合った相手と寝た、といった内容が生々しく綴られていた。ショックを受けた。衝動的に家中の薬を飲めるだけ飲んで、工作用のカッターで手首を切った。なぜそう行動したのかは自分でもわかってはいなかった。「薬を大量に飲む」「手首を刃物で切る」という行為で自殺を図るのは、数日前にテレビで見た女子高生で自殺をした南条あやさんについてのドキュメンタリーの影響をうけたものだったと思う。薬を飲んだ後に眠ってしまったようだったけど、布団で目が覚め、「死んでない」と思った。
それから、どうして生きていいかわからなくなって、明らかな希死念慮が現れはじめた。
私にとって、性被害の記憶と、その時母に気に掛けられなかった事は強く結びついており、「私はこの世界で異質であり不必要な存在だ」という事を意味するものであった。記憶ではなくそういった意識だけが働き自分へ影響していった。
今になって当時苦しかった理由がわかるようになった。姉も相当苦しんでいて、愛される事を必死で望んでいたのだと思う。
自殺未遂の件がきっかけで自分のバランスが崩れ、中学校を不登校になった。その後なんとか高校にも入れたものの、また再び不登校となった。理解のある教育者に出会わなかった。母は私の不登校についてほとんど何も言わなかった。私はひとり家で本を読んだり、DVDで映画をみたり、ゲームをしたり、音楽を聴いたり、インターネットをしたり、自分について考える事から逃げていた。
16歳の時、性的虐待を受けた子供についてのニュースをみて、自分が6歳のときに経験した出来事が性的暴行であった、と完全に理解した。それからは、誰にもバレないようにひとりでこっそり、意識を無くす事のために、飲めないアルコールを大量に飲んで吐いたり、ネットで合法ドラッグを手に入れて試したり、自分を消そうとしていた。この自暴自棄は自傷行為だった。
そしてある日、岩井俊二監督の「リリィシュシュのすべて」をDVDで見終わった後、衝動的に自殺を図った。家中の薬をかき集め、唯一家にあったアルコールである梅酒でそれらを流し込み、朦朧とした頭で手首を切った。13歳のときとほぼ同じ方法だった。
この映画がどんな話だったのかは覚えてないが、自分の確信に触れる何かがあったのだろう。もう一度鑑賞することは怖くてできていない。
目が覚めるとそこは病院で、となりに母がいた。そして私に「ごめんね」と言った。私は母が傷ついた事に安心した。
母が私の苦しみを理解する事は無い。だけど母は私が苦しんでいるという事を理解した。私は母に、私への理解を求めたり期待したりする事を止めた。それ以降自傷行為をしなくなった。母との関わりに執着をしなくなり、距離を置く事ができるようになった。
その後大学に進学し、卒業したが、就活ができなかった。社会に入って関わっていかなければならない場面で「普通とは違い何か欠けている」という事に追いつめられるようになった。
愛や幸せ、夢や希望、仲間や絆、情熱や努力、そういったもので溢れるこの世界に自分の居場所などなかった。自分の中にそういったものの概念が存在しない。どうしてもわかることができない。社会の当たり前とされている前提のほとんどが疑問だ。祖母の葬式で涙を流す事が無かった。知人が出産をしても、喜びを感じる事がなかった。「尊敬する人」という題で作文が書けなかった。「将来の夢」がわからなかった。自分に何かできると思っていない。人のためになる事をしたいと思っていない。自分が成し遂げてきた事は何もない。自分がどう思っているか何も言えない。誰にも自分の事を知ってほしくない。
「じゃあなんで生きてるの?」
そうして3度目の自殺を図ろうとした。崖の上から海へ飛び込むつもりだったが、数時間立ち尽くし、波の音をきいただけで、結局死ねなかった。なんで生きてるかわからないけど、それでも死ねなかった。
私は私として社会で生きていく事が苦しかった。
自分のいなくてよい世界を探した。
イヤホンをさして音楽を聴きながら夜の繁華街をでたらめにひたすら歩いた。誰も私を見ないし、気にしない。影とネオンと人々。私はそのとき亡霊だった。毎朝5時前に目が覚める。外はひっそりと、ひんやりして、人の気配がなく、青い。鳥の声や風の音がきこえる。誰もいない世界をゆっくり歩くとき、私はおばけ。人々が去り廃墟となった住宅地にこっそり忍び込む。誰もいないが確かにそこで人々が生活をしていた気配がある。そこは取り残された無人の過去。社会に属していない時、私が私である必要がないとき、私はやっと呼吸ができて安堵した。そういう場所を求めて彷徨っていた。そして時々その世界を写真に撮り、アーカイブとしてネットにアップするようになった。写真は私が唯一誰かに見せられるものなのかもしれない。
http://mitoto.tumblr.com/
非現実的な場所を求める一方で、人々が生活を営んでいるのを見るのも好きだった。住宅街や路地を散歩する事が多かった。はためく洗濯物、窓から見えるカーテン、玄関前に集合された植物の鉢植え、夕ご飯の匂い、干されている色んな大きさの靴、飴色の革靴、使い古された道具。みんな生きているんだなあ、と思うと愛おしく思えた。そう思う程、自分は一生懸命に生きていないな、と感じた。
社会に属し、仕事をすると、私は私である事を求められる。そういう事に耐えられなかった。私は家を離れ、住み込みの仕事として派遣やバイトを探し、短期間で各地を点々とした。
人と深く関わる事は避けてきたし、信用できなかった。自分に興味を持たれると逃げ出したくなった。それでも関わろうとしてきた人が今現在のパートナーだ。そうして現在はフランスの地方に住んでいる。
私はこの土地で「おばけの世界」を見つける事ができた。カメラをもってその風景を多く撮るようになった。青く霧がかかったときの景色がとても好きだった。こんな世界があるのかと思うと興奮した。光や水や植物の美しさをもっと見つけるようになった。自転車を走らせると人工物が何もない景色に出会う事ができた。大きな森へも自転車で行けた。
家では、ごはんやおやつをつくり、掃除をしたり、家具をつくったり、部屋を整える。そういった日々は穏やかだった。
だけど、どんな場所であろうとも、生きていくのだったら、社会と関わらなければいけない。フランス社会では日本よりももっと、「あなたはどんな人で何を考えているの?」「何が好き?何がやりたい?」という事が強く求められる。
自分の考えや意見をもったところで、根底ではいつも自信がない。自分の意見を持つ事が怖い。この言葉や考えは本当に自分自身のものなのだろうか。傲慢になってはいないだろうか。この悲しみはただの自己憐憫なのではないだろうか。何が本当に正しいのだろうか。私が悪いのだろうか、相手が悪いのだろうか。こういう時はどう考えるのが正しいのだろうか。どう振舞えばよいだろうか。どうするべきなんだろうか。一般的にはどうだろうか?どんなルールなのだろうか?普通でいなければいけない?どうしたらいい?
社会的な人間であろうとし、私は人間のフリをしてバレないように振舞う。それでも、考えを否定されたり、偏見を持たれたり、伝わらなかったりする。そうしているうちに私は私がわからなくなる。好きなものがわからなくなり、音楽が聞こえなくなり、風景がみえなくなる。私がここにいなくなる。
普通はこうである、というルールを定めて、自分を異物としているのは結局自分自身だ。自分に出来る事は何もない、自分には価値がない、自分でいてはいけない。そうやって自分を苦しめているのは自分だ。
どうして私はこうなんだろう。どうしたらいいんだろう。
出口のない迷路だ。この世界で迷子のおばけだ。そう思ってきた。
だけど、本を読んでようやくわかった。おばけはどうしたって人間にはなれないということ。普通の人とは根本的に違う世界で生きている、ということ。そしてそういった人々や世界の事を肯定するような人(著者)がいる、ということ。
私は私のままでいいのだ、と少し思えるようになった。
いつ突然死んでもかまわない。でも、どうにかやっていけたらいい。自分の思う美しさや、風景や、悲しさや、さびしさを損なわないで、ごはんを作ったり、おいしく食べたりして、どうにかやっていけたらいい。私は私なんだ、と言い、あなたは、あなたなんだね、と言いたい。情熱をもってどうしてもやりたい、という事はない。だけど、何か出来る事はあるはずだと思いたい。
気づきを得たとしても何かが劇的に変わるわけではない。苦しさがなくなる事もない。
だけど、揺らぎながらも日々が続けばいい。