おばけについて を書いてみて
この記事を書いた後に思ったこと
最初に、本を読んで得た気づきを形にしなければ、と思った。自身を客観的に眺めてみるために、人の目につくところで。客観的にわかりやすく書けたか、というと、細かく書きすぎたり、書かなさ過ぎてわかりにくい所もあるなあと思う。まだ過去になっていない事はここには書けていないしまだ文字に起こせない事もある。書けた事は、過去だと認識した事柄だ。自分がこうなのは、理由があったのだ、と思うと安堵する。だから苦しいんだ、と言いたかった。こんな自分が在ったのだ、と認識する事は自己肯定への一歩になるのかもしれない。
でも。自分が出来ない事への、頑張っていない事への、言い訳を必死でしているだけなんじゃないのか、許されたいという甘えなんじゃないのか、そういう考えが頭にまとわりつく。自分を肯定したいと思うとすぐさま自己否定がやってくる。
誰かに自分を理解してほしいという理由で書いた訳ではないけれど、偶然読んだ人が「こんな人がいるんだなあ」と思ってくれたらいい。読んでみたけど「全くわからない、理解できない」という人もいるだろうなあと思っている。
自分の生活範囲で出会う人達は、社会規範で生きてきた人しかいないので、自分が勝手に傷ついたりする事が多い。だけど、インターネットで出会う人たちは、社会規範で生きてきたけど、おばけやその世界の事をわかろうとする人や、わかる人、または、おばけの人やそのはざまの人がたとえ少数でも居るんじゃないかなあと感じる事があって、傷や痛みの事を知っていたり、理解できる人がいるという事に救われる。書いた事で得たものは、私の、人に対しての信頼の一歩のよう。もしかして、少しずつ話したり近づいたりできるようになるかもしれない。うん、やっぱり書いてよかった。
おばけでも、苦しくならないでやっていける方法があるだろうか。これならなんとかやっていけるかもしれないな、この場所だったら私は大丈夫だ、というのをどうにか見つけたい。どうやってかはまだわからないけど。
できなかったら、まあそれはそれで仕方ないのだろうとは思うんだろう。
あと、おばけにも一応良いところもあるよ。
社会のルール規範に疑問を持てるところ、どんな人に対してもあまり偏見を持たなかったり、わかろうとしたり、疑問については考える事ができるところ。
それから自分の写真は好き。でも創作って難しい。自分にとってそれはかなり困難だ。それにいてはまた書きたいです。