『辞書で読むドイツ語』遺言版 第五回

文法上の議論には「用例」を使え、「作例」を使うな
 
 長い題名にしましたが、先に進む前にどうしても言って置かなければなりません。なぜならNHKの「放送用語」の問題を論じている月に一回の番組がこの原則を守っていないからです。
 
 数か月前だったと思います。ラジオ第一放送の夜の十一時でした。いつものとおり月に一回の「放送用語の検討」とかいう番組で偉そうな肩書の男性が問題提起をして、若い女性のアナウンサーが相手をして話を進めました。
 テーマは「~したら、~に出くわした」という表現と「~すると、~がどうこうした」という表現ではどいう違いがあるか、でした。
 二人で考えつく「作例」を出しあいながら考え進め、結局「どう違うかはっきりしない」という結論に達して、「日本語は難しい」と言って終わりました。
 
 この番組は「ラジオ深夜便」の前だからつけているだけですが、いつでも感じることはテーマのくだらなさです。もっと大切な問題があるのに、と思います。私が気にしている例をあげますと、例えば「ありがとうございす」が適当と思われる所に今では「ありがとうございました」というのが普通になっています。
 もうだいぶ前の話ですが、「週刊朝日」で四人の碩学が「おめでとうございます」の代わりに「おめでとうございました」と言うのが流行っているが、本当は違う」といっていたのを思い出します(本になっています)。
 思うに、こういうまちがいは、日本語には現在完了という時制が無いのと、英語の現在完了の表面的理解が加わってできたのでしょう。
 「ありがとう」が出ましたので、前々から一部の人だけが言っている「ありがとうございます」への受け言葉としてのは「どういたしまして」があるのに、ほとんど聞かれなくなった、という事です。ラジオ深夜便でもイタリアの田舎町に住む〇〇さん(名前をわすれました。大屋さんだったかな)だけです。
 「どういたしまして」は「美しい日本語」だと思うのですが。

 脱線しすぎました。
 今回のテーマは「用例」と「作例」の使い分けでした。要するに私の言いたいことは、あの二人の会話が、両者の違いをしらないらしく、作例ばかりで行われたのはあまりにひどかった、ということです。
 「~と」と「~たら」の用例なら有名な川端康成の「雪国」の冒頭の「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」を思い出す人も少なくないでしょう。
 要するに、結論をいいますと、その場で考え出した作例はその人の論旨に好都合なものになりがちで、文法の証拠としては弱いということです。
 これくらいの事も知らないNHKは本当にひどいと思います。

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