【書籍】世界制作の方法
アメリカの哲学者ネルソン・グッドマンによる「世界制作の方法」。刊行されるやいなや、アメリカ哲学会に大反響を巻き起こしたというが、はたして・・・。取り急ぎ、拝読。
われわれは唯一の現実世界に代わりうる多数の可能世界についてではなく、多数の現実世界について語っているのである。
記述されたものが何であれ、われわれはそれを記述する方法に縛られている。われわれの宇宙はいわばこれらの方法から成るのであって、ひとつにせよ複数にせよ、世界から成るのではない。
世界とは、記述することによってのみ、世界を言い表わすことができる。ただし、その記述方法は多岐に渡る。
一定の体系(システム)のもとで(中略)おのおのが正しいのである。ここで再びわれわれは「世界」(the world)を記述ないし描写することから、記述や描写に注意を向け変えることになる。
「世界」だといまひとつしっくり来なかったが、「the world」の方がわかりやすい。つまり、「その世界」や「○○界」、われわれが住む世界も当然のことながら、人間界や芸術界のようにある特定の世界がこれに該当する。
数多くの異なった世界=ヴァージョン
記述、描写、知覚、様態(ありさま)といった正しい世界の各ヴァージョンを、われわれの世界として扱える。そのため、ありとあらゆる世界のヴァージョン、「version」は「版」よりも「型」の意によるものであろう。
コンスタブルの、あるいはジェームズ・ジョイスの世界=ヴィジョン
コンスタブルは風景画家、ジョイスは小説家で、彼らの世界、すなわち絵画や小説の中。これらのヴィジョン(vision)は「見通し」ではなく、「光景」や「情景」の意であろう。
それぞれが正しくて、しかも対照をなし、すべてが唯一のものへ還元されるわけではない多くのヴァージョンが存在する。
各ヴァージョンは単体で存在している訳ではなく、そのほかのヴァージョンと相互作用的に影響を及ぼしている。
世界がなくても言葉は存在できるが、言葉なり他の記号なりを欠けば世界は存在できないのである。
世界は言葉でできてきる。そういえば昔にそのようなタイトルの番組があった。
世界を作っている多くの材料ー物質、エネルギー、波動、現象ーは世界と一緒に作られる。そしてこれらは他の世界から作られる。
ただし、これは「鶏卵理論」と同様、どちらが先に存在していたのかという問題をはらんでいる。正解はないので、宗教的な(神が創った)となってしまうのであろう。
制作(making)とは作り直し(remaking)なのだ
すでに他の世界に存在するものを利用して、対象とする世界のものを作り出す。
硬固な基礎を求めたいという誤った希望が一掃され、世界なるもの(the world)がヴァージョンにすぎないさまざまな世界(worlds)に席を譲り、実体が関数へと解消され、与えられたもの(所与)とは把握されたもの(獲得物)であることが認められたあかつきに、われわれは、世界がどのようにして作られ、検証され、そして知られるのかという問いに直面する。
ある世界はヴァージョンであり、ヴァージョンによって(全体的な)世界(=worlds)が制作される。
写真は我々が生活する実世界を撮影という行為をもって切り取ることで、写真的世界を制作する。しかし、「無」の状態から写真である画像データを作成することも可能である。
コンピュータ世界で画像を制作するためには、同一世界内で「0」と「1」をいう信号を用いてJPEGのようなコンピュータが認識できる画像フォーマットをつくればよい。ただし、「0」と「1」は数学世界によるもの、とするのであれば「無」の状態からではなく、数学世界→コンピュータ世界で画像データを制作(making)し、その画像が写真世界での画像=写真となる、ということもできよう。
本書の題名でもある「世界制作の方法」、ここではさまざまな世界制作の方法を以下のように分類されている。「さまざまな世界」であるため、the worldにおける制作の方法である。
(a) 合成と分解
(b) 重みづけ
(c) 順序づけ
(d) 削除と補充
(e) 変形
主題と様式は異なり、「主題とは語られたものであり様式(style)とはその語り方である」。しかし、作品によっては(たとえば抽象絵画など)、主題が存在しないものも存在する。
包括的存在者にかんしては、私にみえるのはただその一部分にすぎない。
目の前にあるが目に見えないもの。空気や風、Wifiの電波も実際には見えない。しかし、たとえば煙が上がっていたとしたら、風の方向ベクトルはみることが可能である。他の因子を用いることなく、目には見えないもの、は数多く存在する。
本書で例として挙げているように、合衆国のように存在してはいるが、具体的にはそのものを見ることができないものも存在する。何をもってそれを同定するのか。衛星画像が見せるのは、われわれが「合衆国」と認識している、国という世界の、人為的な境界線によって区切られた形状によって、われわれはそれを「合衆国である」ということはできよう。
象徴(シンボル=記号)は、作品の魅力の要素であれ娯楽の要素であれ、作品そのものにとり外在的だという仮定である。
しばしば「藝術とは何か」という問いに答えようとすることは「絶望的試みで撮り散らかされている」と弾劾している。
ほんものの問いとは「どのようなものが(恒久的に)藝術作品なのかではなくて、「あるものが藝術作品であるのはいかなる場合なのか」ーあるいはもっと短く、「いつ藝術なのか」である。
この問いに対してグッドマンは、『ある対象は、まさに記号の機能を一定の仕方で果たすことによって、そうした機能を果たし続けるかぎり、藝術作品になる』と述べている。
この場合は、「美術館に展示される場合には藝術作品になりうるのだ」というように、藝術作品として認められれば、それは藝術作品であると呼ばれることを意味する。
さらに美的なものには、以下のような5つの徴候があるという。
・構文論的稠密
・意味論的稠密
・相対的充満
・例示
・多重で複合された指示
仮現運動に着目。仮現運動とは、実際にはその場で停止しているが、「動いているように見える」現象を指す。たとえば、「ファイ現象」。ものごとの見方や見え方ではなく、錯覚学(錯視)の分野に関するものである。
ファイ現象は実際に○が移動しているわけではない。順に色が消え、背景色となる位置がズレていくことによって、我々はそれを「動いている」と錯覚する。ただし、実際にはなにも手を加えられていないわけではない。「動いて見えるように」表示・非表示という時間の連続性が与えられている。
「世界はヴァージョンによって制作される」。これは多元論的なものを意味しているとグッドマンはいう。ただし、「正しい世界=ヴァージョンの多様性を強調するが、多くの世界が存在するとは主張していない」と付け加えている。
平行世界(パラレルワールド)的なものではなく、それぞれの世界にはそれぞれ固有のヴァージョンが存在するという捉え方。そして新たなヴァージョンへと書き換えられるまでは既存のヴァージョンにしがみつき、新たなヴァージョンへと移行することで世界が制作される。
事実は作られるのではなく発見されるのだということ、事実が唯一無二の現実世界を構成するということ、知識は事実を信じることから成るということ
先日『新記号論』を読んでいたからこそよくわかる部分もある。石田氏が指摘していたように、1900年頃の記号学は文系・理系といった明確な区分けがなく、どちらの分野についても取り扱われていた。しかし、ラカンが言語学的な分野との良質な結合を図ったため、記号論は理系を置き去りに、言語学の特権として取り扱われるようになった。
法則とは委曲を尽くしたデータの細大漏らさぬ報告ではなく、容器に無理やり内容を詰め込むといった体の、大雑把な単純化なのである。
あくまで法則は実現象を近似的な数式によって成り立っている。たとえば、物体の落下法則。空気抵抗が存在しない場合、鉄球と羽は同じ速度で落下する。v=1/2gt^2とは、自由落下という仮定条件の下で成立する公式である。
NASAはこの真意を証明するため、真空状態を再現できる巨大施設で実験を行った。
実際には、表面積と空気抵抗の関係上、羽の方が落下は遅い。実現象においてこのことは経験則的に自明である。そこに単純化、すなわち「空気抵抗を考慮しない」という条件を与えることで、この法則は成り立っている。