写真とは何か アートとは何か
Zoomでの勉強会にて、「写真史もいわばMoMAが作りあげた歴史に過ぎない」、「書道といった『道』もアートとして位置付けられていないよね」という話しの流れになった際、そうだよなーと思いながら、しばらく経って...。
そもそも写真とは何か、アートとは何か、といった問いになぜあえて小難しい思想や哲学などを交えて論じなければ成立しないのであろうか、というそもそも論にふと立ち返ってみたので、思ったことを記録として留めておく。(極論じみていますが。)
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まず、自分という人間が何者であるか、どのような人物であるかを知るためには、他者が存在し比較することで、初めて「私」を認識できる。
アート作品も同様で、美術史の文脈の中ですでに認められている作品と比較することで、その作品がアート作品であると位置付けることができる。ただし、自己と他者とは異なり、「誰が」その作品をアート的価値のあるものとして評価したかが重要となってくる。
無名なアーティストが、自身の作品についてひとりその芸術的価値を力説し、アート界隈に届いて認められる確率よりも、MoMAがこの作品はこういう理由で優れている、と言われる方がはるかに影響力が強いことは当然の結果であるように、「誰が」その作品の価値を評価したかどうかが重要となってくる。極論をいえば、まったくもってアート的価値すら見い出せない作品であったとしても、例えばMoMAがアート性を評価した瞬間に、その作品はアート作品の仲間入りすることもできてしまうのだ。
写真でいうと、ヴィヴィアン・マイヤーやソール・ライターのように、当時は無名であったとしても、第三者にその価値を見い出されることによって有名となった事例が存在する。写真史的にさかのぼれば、マン・レイによってその芸術的価値を見い出されたウジェーヌ・アジェのように。
ここで、ふと思い浮かんだのが、最近課題で読んでいるモダニズム、フォーマリズム関連の書籍の中に登場する一人の画家であった。
バーネット・ニューマン(1905 ~ 1970)は1950年代、アメリカで端を発した抽象表現主義において、カラーフィールド・ペインティングの代表的な画家として知られている。
画家になる前は批評家やキュレーターとして活躍していた彼だが、画家として活動後、類まれなる理論武装能力をフル活用し、自らの作品を現代美術史の文脈の中に位置付け正当化した。
批評家でもあったニューマンが、自身の作品を現代美術史の文脈の中に位置付け正当化した=権威のある人が、この作品は〇〇な理由で現代美術の作品として優れている、ということを自身が自身の作品について価値を定義する稀有な例だとは思う。しかし、逆説的にいえば、権威のある人が最もらしい理由で現代美術の文脈に乗っていると評価されさえすれば、アートとして認められるということに他ならない。
つまり、その作品がアートかどうかは、
・権威のある人(批評家・美術館等)に見い出されるか
においてのみ、アート作品であると呼べるのではないか。そのおまけとして、
・現代美術の文脈に当てはまっているかどうか(延長線上も含む)
が判断の基準となってくる。
また、感情論や精神論を抜きにすれば、資本主義社会におけるアート作品は資産価値があるかどうか、に尽きる。現代においては、物質的に存在するものに対して、オークションが行われている。いわば、物質的に残すことができるアート作品(ファイン・アート系)には資産価値がつくが、残すことができないアート作品には資産価値はつかない。ただし、現代において、ではあるため、将来的にはブロック・チェーン技術などでデジタル管理される時代がくると、非物質的なアート作品についても、資産価値の仕組みが構築される、なんていう時代がやってくる、かもしれないが。
このことから、アートとは何かという問いに対する解答は、
「影響力のある人・団体等によって、その芸術的価値を認められることが、
アートである。」
と結論付ける。
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