【祖父と原爆 2】 学徒動員の仕事
三菱兵器は海軍の空雷を製造する工場である。飛行機の胴体下に空雷を抱いて飛行し、敵艦を発見すると空雷を海中に落とす。空雷は海面下7・8mを自走して敵艦に命中して爆沈させる魚雷である。山間工場での僕達の仕事は、空雷の心臓部に当たる方向制御部や操柁装置のジャイロの軸受け部品を主として製作していたが、部品の相互関係は各製造部門で交差して作られており、これら装置の全貌の分かる人はいなかった。
旋盤の被加工物(棒鋼)は材質が極めて堅く(合金鋼)、バイトもタンガロイ鋼が使われ、かつ各種様々なタンガロイ鋼のバイトは数棟離れたバイト製造部で大量に作られており、消耗品として扱われているのには驚かされた(当時、学校では貴重品だった)。
僕が最初に作ったのはジャイロスコープの半球面状軸受けの旋盤加工であった。これを他の加工工場で研磨、ホーニングして完成するのが精度5μ以下であるため最後の検査に合格するのは20%位であったと聞いている。当時はICや超LSIの未開発時代で、真空管による電波探知も幼稚な時代であり、敵艦のスクリュー音を探知しても、自動制御により魚雷を操縦できなかった。
敵艦の進行方向とその速度並びに魚雷の直進速度から魚雷の到達場所•時間を計算して、飛行機から魚雷を投下していた。魚雷が敵艦に到達する前に深度が深くなると敵艦の下を潜る等で命中しない(現在は敵艦のスクリュー音を聞き、方向•速度•深度を感知して敵艦を追跡する)。
直進する装置としてジャイロスコープと水圧を利用した平均深度装置を一体にした計器が使用されていた。そのジャイロスコープは空気圧で毎秒1•2万回転にして30分間以上持続する必要があるため、その軸受けは非常な高精度を要したものであり、僕はその軸受けの製造部門で働いていた。
空襲警報が発令されると防空壕に避難すべく、走って防空壕に入り込むが、あるとき中学校の女子生徒が防空壕の横でお喋りしているのを憲兵に見つかり、大変な剣幕でおこられ(しかられ)て泣いていた。生死を預かる憲兵として当然とはいえあまりにも可哀想であったので、憲兵に申し出て身柄を貰い受けて横の防空壕に入れ、空襲警報が終わってから先生に引き渡したことがあった。
山間工場は暫定の工場で建物が小さく高い樹木も多いため、防空壕は建物と道路の間に面積1.5㎡、深さ約0.7mの穴を堀ったのみの簡単なものであった。これは警報発令後間もなく敵機が来襲して避難が間に合わない時に使用する非常用であった。
長崎には軍需工場が多いので、空襲といえば工場破壊に適した爆弾攻撃のみで、焼夷弾は使用されなかった。午前10、11時頃になると毎日のようにグアム島から飛来するB29の爆撃を受けた。
空襲警報が鳴り、逃げる時間があるときは工場の裏山に登り長崎爆撃の状況を目の下に見ることができたが、爆撃を最初に経験した時は怖くて足がすくむ思いがした。長崎南方から北上する敵機(B29)は、長崎港を越えた位の所から爆弾を数珠繋ぎに投下し始めた(爆弾の落ちる状況が目でよく見えた)。間もなく地上に落ちた爆弾は造船所から三菱電気の方向に向かって破壊して我々の頭上を通り抜けたので心が凍る思いであった。
3度目以降からは山にいる我々には落とさないことが分かったので気楽に見ることが出来た。しかし、眼下に我々の工場が破壊されるのを傍観するのみで、攻撃のできる兵器のない我が国の国防力の無さがはがゆく、情無く憤りを感じた。B29は高度約1万mの成層圏を飛んでおり、当時その高度を飛べる戦闘機も、その高度まで打ち上げられる高射砲も世界に無かった。
昭和20年4月当時ともなると国内の陸・海軍には敵機を迎撃できる戦闘機はほとんど無く、敵の護衛戦闘機グラマンやスピッフアイヤーが長崎の上空を低空で我が物顔に飛んでいるのを見ると無性に腹が立ち歯ぎしりする思いであった。