Bence Nanay, Aesthetics as Philosophy of Perception (第二章: Distributed Attention)
Nanayの 『知覚の哲学としての美学(Aesthetics as Philosophy of Perception)』の第二章「分散した注意(Distributed Attention)」について読んだのでメモ。
Nanayはアントワープ大学の哲学心理学の教授
本章の目的
美的経験を、知覚の哲学の観点から説明すること
方法論・議論の進め方
方法論
知覚の哲学の概念である「注意(attention)」をもとに、いくつかの美的経験の典型例が持つ特徴を説明しようとする
議論の進め方
この章で取り上げる美的経験がどのようなものかを説明する
プルースト、カミュ、ロベルト・ムジールなどが語っている種類の美的経験で、われわれにも馴染みがあるもの
いくつもある美的経験の中で、典型的なものの一つ
美的経験の2つの特徴を説明する
コントロールできない
余韻が残る(they have a lingering effect)
2つの特徴は美的注意(aesthetic attention)という概念で説明できると提案
美的経験や美的注意について否定した、ディッキーの主張をみる
無関心な注意(disinterested attention)という観点から、美的経験を定義しようとすると、関心のある注意と無関心の注意に明確な区別が必要だが、その区別はできない
ディッキーの、注意が一種類しかないという前提が間違っている
ディッキーにとって注意は、さまざまな動機をもち、強くなったり弱くなったりするが、たった一つしかない
Nanayは「対象への注意の方法(集中/分散)」と「対象の性質(property)への注意の方法(集中/分散)」の2つの切り口から注意を区別した
美的注意とは「一つの物体に注意を集中させ、多くの性質に注意を分散させる」注意である
美的注意の説明は「無関心」とも合致する
ただし、美的注意は、いくつかの美的経験の典型例における中心的な特徴だが、あらゆる美的経験の必要十分条件ではない
キャロルの「デフレ説(deflationary approach)」や、「それ自体のために評価する説(valuing for its own sake)」もみてみる
これらは美的経験の「コントロールできなさ」や「余韻」に関してうまく説明できない
美的注意なら美的経験の「コントロールできなさ」や「余韻」に関してうまく説明できる
さらに、なぜ美的経験を得ようとするのかも美的注意から考えるとうまく説明できる
よって、美的注意は、いくつかの美的経験の典型例の中心的な特徴であると考えられる
結論
美的経験のいくつかの典型的なケースでは、わたしたちの注意は一つの知覚対象に集中していながら、同時にその対象の多くの特徴の中で分散している
このような「美的注意」は一般的な注意の仕方とは大きく異なり、美的経験のいくつかの典型例における中心的な特徴である
美的注意は美的経験の特徴である「コントロールできなさ」と「余韻」についてうまく説明できる
自分はどのような立場をとるのか
目的
知覚の哲学をもとに美的経験を説明する試みは、より一歩現実的な感覚に近づいている感じがして面白い
方法論、議論の進め方
美的経験に関する有力な説との比較をしつつ、美的注意から考えることの利点を説明しているので、美的注意に訴えることの良さがわかりやすい
注意という観点から美的経験を考えることで、「デフレ説」や「それ自体のために評価する説」で説明できてない点を説明できるのは良い
注意の対象を対象物とその性質の2軸で区別したのが良い
たしかに、じっくりと絵を鑑賞しているときは、その絵の色やモチーフ、筆致などに注意を分散させている気がする
ただ、美的注意や美的経験の必要十分条件については本稿では示していないことは意識しておかないといけない
結論
美的経験をしているとき、「一つの対象に集中していながら、その対象の複数の特徴に注意を分散させている」というところは経験ともあっている
絵を「いいなぁ」と思って鑑賞しているとき、色のグラデーション、絵の具の凸凹感、絵の具がつくる影などに注意が行き来している感覚がある
一方で「余韻」の説明があまりしっくりときていない
たとえば美術館で絵をみているときに「美的注意」が発生すると、美的注意フィルターのようなものがかかって、美的注意へのなりやすさが向上するということなのか?
Emotion and Aesthetic Value でPrinzが美的評価(aesthetic appreciation) は驚嘆(wonder)から生じていると論じていたが、典型的な美的経験はwonderの感覚なのかもしれないと思った
Nanayの「第七章で仮に論じるように、この種の美的経験は世界や芸術作品を経験する普遍的な人間の経験の仕方ではなく、ある歴史的な時代に結びついたものかもしれない」(p35)という主張もPrintzの説とも似ている
「驚嘆(wonder)が芸術作品を肯定的に評価する際、根底にある情動のベストな候補であり、驚嘆は生物学的なルーツを持つが、同時に文化から生まれたものでもある」
絵の知識や見方を伝えることは美的経験を起こしやすくするのかも気になる
知識は注意を分散させるためにあるのかもしれない