2024/11/25 老いと幸福
日曜日、お台場近くの日本科学未来館へ行った。確か小学生の頃に訪れたことがあるけど、真夏のお台場冒険王に疲れきった母親と2人で涼むために入ったくらいで、大きな地球があったなぁくらいの記憶しかなかったから、ほぼ初訪問の気分。
中でも「老いパーク」というブースが賑わっていて、老いを体験するゲームに子どもたちが列を作っていた。我々はその周りの読み物をフムフムと読み、自分の祖父母や親、未来の自分に思いを馳せる。歳を重ねることで精神的な成熟を得ることには前向きでいるけど、身体的な老いはやっぱり怖い。大切な記憶を増やすことや、大切な人への理解を深めることが人生の喜びだと思っているのに、それを積み重ねていけばいくほどに喪失のときが近づいてくる怖さ。今はまだ目を背けてしまう。
ブースの最後には、「Q1.70歳になってしたいことは?」という問い。いくつか並んだタッチパネルに自分の答えを書くと、壁のモニターに投影されるシステム。みんなに見られるからちょっと恥ずかしいけど、せっかくだから書いておこう。
よし!送信!
じっくり考えればもっともっとやりたいことがあるけど、とっさに出てきたのがこれだったので、いちばんの願いなんだろうね。
そして「Q2.そのために大切にしていることは?」と2つめの問いが出てきた。焦って書く。
当たり前の話し!だけど健康な歯と内臓は何より大事。30歳までに歯列矯正を始めるぞ、などと言ってる間にあと2年ちょっとになってきた。早くしなさい。あとここには書けなかったけど、一緒にごはんを食べたい人たちを大切にすること。そしてその人たちから大切にしてもらうこと。老いてゆく間にたくさんのことを忘れてしまうだろうけど、これだけは忘れずにいたいね。
しかし、どうして私は歳をとっても好きな人たちとごはんを食べたいと思うんだろう。ごはんを食べたり、ただ道を歩いたり、歌ったり踊ったりしたいんだろう。どうしてそれを幸せだと思うんだろう。
知ること。それが今の私が幸せだと思っていることの正体なのかもしれない。相手を知り、自分のこともまた知ってもらう。点と点を繋げて分かった気になる行為でなくて、ただ在ることをまっすぐに受けとめること。自分のことだって、もちろんすべてを知ってもらう必要はなくて、相手が受けとめてくれようとするぶんだけを知ってもらえばいい。そして自分でも知らない自分を見つけられたいし、見つけたい。そういったことを、好きな人とごはんを食べることや、歩くこと、歌い踊ることを通して実現したいのかもしれない。なんだか大きな話をしちゃったな。この考えもまた、数年後、いや数日後には少し変わっているんだろう。人間ってそういうもんだから。
28年前、ふわふわの長い金髪を靡かせて「いつか僕らも大人になり老けていく」と歌っていたロックスターが、大人になり老けた(とされる)今、「悲しかった時間は無駄ではないよ」と歌っている。私が28年前に彼のファンだったとしたら、こんな詞を歌っている彼を想像できなかったし、したくなかったんじゃないかと思う。勝手な空想でしかないけど。でもここ十数年の彼の歩み、社会の変化、そして自分の人生を見つめてきているから、「無駄ではないよ」と歌われて暖かい涙が流れる。もしも私がまだ18歳だったら、そんなおじいさんみたいなこと歌わないでよ、とか言っちゃってるかも。多分言ってる。アーティストが歳をとって表現するテーマが変わったように見えることや、ファンの年齢層も高くなることを揶揄する人がたまにいるけど、それでいいじゃん。っていうか何も変わらない方が不思議なことじゃん。と、当たり前のことを思う。一緒に歳をとろう。
老いと幸福について考えた日。老いパーク様様だ。科学未来館、またじっくり楽しみたい。