
葬儀
(小説)
その日、私はよく知らない人の葬儀に居た。
私の父の弟の妻の母のお葬式だと父は言った。私とその人との関係性には、どうもこれといった明瞭な名前がつかないみたいで、こうややこしい表現をするほかなく、それはもう他人と言い切るのが正しいんじゃないかしらと思ってしまうが、私の家族と父の弟の家族は仲が良いので、特別に、私まで参列者として認めてもらえたようだった。
親族が集まる控えの部屋は、人が30人は収まりそうなくらい広い座敷だった。大人たちはせわしく動き回り、お悔み申し上げ合い、参列者らをもてなすなどしていた。私は分別のある高校生らしい佇まいすべく、参列者らにすこぶる丁寧なお辞儀のお出迎えし、知り合いの大人たちから発せられる、大きくなったねえ、学校はどう、などの質問に愛想よくお返事していた。
しばらくして、形式的なあれこれが落ち着き、大人たちはどこかへ行ってしまい、元気な子どもたちは葬儀場内をうろうろしに出かけ、控室には私と少女の二人だけが残った。その少女は、これまた父によると、私の父の弟の妻の妹の子どもだという。今年10歳になるらしい。というと、小学4年生くらいだろうか。
少女は、私のほかには一人もいないのに、足を崩したり肘をついたりせず、落ち着き払った様子で礼儀正しく座椅子に座り、なんとなくうつろなようすでぼんやりと壁のほうを眺めていた。
二人しかいない空間で、お互いに初対面の二人が二人して沈黙を続けるのは気まずいように思われたので、少しのためらいの後、こちらから声をかけてみることにした。私は微笑みを作って少女に近づき、柔らかい声に聞こえるように、発声に細心の注意をはらって「こんにちは」と言ってみた。私のことを"優しそうなお兄さん"だと思ってもらいたかった。
少女がさっと振り返り、突然二人の目が合った。瞬間、私は思わず身じろぎした。彼女の瞳は清冽だった。他者への親愛をほんの僅かも滲ませないその孤高な雰囲気は、私に猛禽類の目を連想させた。少女は彫刻のように均整のとれたアーモンドアイで、私の瞳孔の奥をじっと見つめた。
両肩はぐっと強張り、私の息も私の時間も彼女に止められてしまって、声を出せなかった。こんな少女に気圧されたのが恥ずかしくて堪らず、私は自分の首と耳の端の熱くなるのを感じた。彼女に気取られぬよう誤魔化そうかと思ったが、しかしそれも見透かされるような気がしたので、やけになってはにかんだ。
彼女は私が赤くなって縮こまるのを見て、少し警戒心を解いてくれたらしかった。眉間から力を抜いて眉頭を持ち上げてみせ、きゅっと口角を窪ませ、「こんにちは」と返事した。その声は、ひとえに高貴だった。幼さの残るあどけない声質の、すぐに空気に溶けて消えてしまうか細さの、その奥底に、気高さというか気品というか、そういうものが見え隠れするような、意外と抑えの効いた声だった。
少女はカスミと名乗った。
私とカスミはいくらか会話のやり取りをして、お互いのプロフィールを開示し合ったのだけれど、その間、カスミは私の表情や身ぶりをずっと観察していた。その視線は広範を俯瞰するようでありながら、慎重に探り出そうとするようでもあった。緊張した様子で、用心深そうに、私の顔の微細な動きをとらえて見逃すまいとし、会話しながらも、会話の内容とは別な何かを静かに考え、緻密に分析しているように見えた。そういう気配があった。私はその気配を知っていた。それは人が人を警戒し、本性を見抜こうとするときの気配だ。私が信頼に値する人間か、危険な人物でないか。つまるところ、彼女は私の人間性を掴もうとしているようだった。
さて、私は危害を加える人間ではなさそうだと判断されたのか、ようやくカスミが私に笑顔を向けてくれた。それは、姫女苑のように控えめで慎ましやかな微笑みだった。そのいじらしい微笑み方に、私はすっかり惹かれてしまった。
大人たちが戻ってきた。もうすぐ式がはじまるようだ。
和尚さんが念仏唱えているのを聞きながら、故人との思い出のない私は、ぼんやり、私のひいばあちゃんのお葬式のことを思い出していた。私はまだ小学4年生だった。私の優しく、かしこいひいばあちゃん。今思えば、もっとたくさん話をすべきだったのだ。葬儀の終わり、ひいばあちゃんの顔に触れた。冷たくて、人間の温もりのない肌、それは死んでしまった人の感触だった。抜け殻などという表現はあまりに奇妙だ。たしかに居るのに、もう思考せず、動かず、話さないその人の、布のかけられた足の上に、私が昔々に牛乳パックでつくってあげた鉛筆立て、使い古されておかれていて、涙が零れ落ち、ただただ寂しく、もうすべてが届かないことに茫然とした。母がひいばあちゃんの頬をさすり、ばあちゃん、と掠れた声で語り掛ける、それを見ていると、ああ、いつか私の母も、大切な人も、みな死んでしまうのだと分かった。ひいばあちゃんはたくさんの手紙と花々に囲まれていた。棺の周りで、どの人も泣いていて、ひいばあちゃんは本当に愛されていたんだなと思い、私も涙流しながら、すこしほっとした。ひいばあちゃんは無事天国に行くだろうと思った。
しかしそれから、ひいばあちゃんは本当にいなくなってしまった。その手順は無機質だった。棺が炉に入り、扉が閉まったときの、背筋の凍るような喪失。私はあまりの恐怖に無言で泣いた。人間の最後がこんなにも呆気ないことを、知らなかった。
カスミは、姿勢を正して遺影をまっすぐ見つめていた。手にハンカチを持っていたので、私は彼女が泣くだろうと思ったが、周りの人が啜り泣きを始めても、彼女は泣かなかった。火葬のとき、炉の扉の向こう側に彼女の祖母が消えても、泣かなかった。
けれど、みんなで火葬場を出て、送迎用のバスに乗り込み、私のとなりに座ったとたん、一言も発さずにぽろぽろと泣いた。カスミは、潤んだ目で力なく私を見つめた。私には、カスミのことがものすごく愛おしく思われて、そのままにしておけず、おそるおそる、そっと頭を撫でた。カスミは嫌がらず、私に撫でられるがまま、静かに泣いていた。
バスは料亭へ向かった。故人を焼く間、みんなでおいしいご飯を食べ、大人たちは酒を飲んだ。さっき泣いていたどの人も談笑していた。これは、やはり不思議な光景だったが、しかし、当たり前のことのようにも思われた。誰も咎めるべきではないし、それは許されるべき行為だと、私は慈愛を込めてそう思った。
生まれることも死ぬことも不思議で、考えれば考えるほど靄がかかる。存在そのものに理由がないのだとすれば、生まれるというのは不条理だし、勝手に存在させられたのにいつか死ぬと決まっているのも不条理だし、できれば直視したくない。多くの人は、生まれてきたこともいつか死んでしまうこともさして考えずに、もしくは考えていても目を逸らしながら生きているけれど、こういう機会には、誰もがありありと意識させられてしまう。だからこの狂気にも見える大騒ぎは、死者を弔う意義もあるだろうけれど、むしろ存在そのものを見ないふりするための措置なのかもしれない。
目を腫らしたカスミは人々の騒ぎに加わらず、私の横、テーブルのいちばん端の席で、にこりともせずに黙々とエビフライをほおばっていた。私の顔には微笑みが浮かんだ。
私はカスミの口元をハンカチで拭ってやった。カスミは、信頼した様子で口を突き出した。いつかキスしてやろうと思った。
(おわり)