ある晴れた日に (ショートストーリー)
<注意>
・人の死や自殺に関する表現が出てきます。
・この物語は100%創作、捏造、でっち上げです。実在の人物や場所、団体、商品、作品には何も関係はありません。名前も思いついたものを付けただけですので、決して実在の人名とは関係ありません。
・この小説は特定の行為を美化したり推奨したりする意図は一切ありません。
20xx年2月28日 午後2時
埼玉県のマンションで清掃員として働いている美恵子(仮称)の視線はB棟の屋上にくぎづけになっていった。そこには彼女よりほんの少し若いくらいの女性がこちらに背を向けて立っている。
これは…管理センターに連絡した方がいいのかな。
美恵子の手はポケットの中の携帯ー職場で支給されたのはガラケーだったーに触れていた。本来であれば、屋上に上がれるのは管理人かマンションの工事や点検に来る業者の人だけで住人や美恵子のような清掃員は屋上に上がることができない。…というのは建前の話で、屋上に通じる階段のドアはいつも施錠されているが、ドア自体が板ではなく格子状になっているので手の細い人なら手を入れて反対側から鍵を開けられてしまうのだ。数年に一度子供が屋上にいるところが見つかり大騒ぎになるのだが、いまだにドアは変えられていない。だから管理人の鈴木さんは美恵子たち清掃員に、屋上に人影が見えたら見間違いでもいいから管理センターに連絡してね、とよく言うのだ。
だが、美恵子は携帯電話をポケットから取り出すことも電話をかけるために視線をそらすこともできないでいた。屋上の女性の表情は後ろを向いているのでよく見えないが、何をするでもなくただただ立ち尽くしている彼女は何だか異様で視線を外してしまったら消えてしまいそうな気がした。
昼間から幻覚?いやいや私もそんな歳じゃないしな…。
それが幻覚でも幽霊でもないと分かったのは、よく見ると屋上の彼女が美恵子が持っている服と同じ服を着ていたからだ。某ユニクロのウルトラライトダウン。軽いし暖かいし持ち運びにも便利なので美恵子も愛用している。幽霊や幻覚がユニクロを着てるなんて話聞いたこともない、それが美恵子が彼女は生身の人間だと感じた根拠だった。
危ないですよ〜、とか声掛けした方がいいのかな。
幸い美恵子の声はよく通る。息子にお母さんうるさい、とよく言われることが玉に瑕だが。声をかけようと美恵子がB棟に向かって1歩踏み出した時だった。
屋上の女性が振り返った。そして屋上の淵に向かって3歩ほどゆらゆらと足を動かした。
その瞬間だった、美恵子の脳内に考えうる限りの最後の可能性が大きな文字で表示された。ふつうはもう少し早くその2文字が浮かぶのかもしれないが、何より美恵子はハッピーエンドの物語が好きだったし、夫と息子と愛犬と平穏に暮らしていたので今の今まで思い浮かばなかったのかもしれない。
自殺?
屋上の上の彼女はこちらに気づいているのだろうか、周りをぼうっと見渡した後、足場を確かめるように2、3歩その場で足踏みすると持っていたバッグを脇に置いた。風が彼女の髪をびゅうと撫でるのが見えた。そして美恵子が何か出来る前に再び後ろを向いてしまった。
10秒ほどだっただろうか、何もない時間が過ぎた。美恵子も屋上の彼女もピクリとも動かなかった、もしくは動けなかった。普段は車がよく通る道が近くにあるにも関わらず、車の音も鳥の鳴き声も人の話し声も誰かがドアを開ける音もせず、聞こえるのはどこからか吹く風の音だけ。
その静かな世界の中で彼女はふと前から肩を押されたようにマンションの屋上から落ちた。
同日 午前6時半
今日も全然寝られなかったな。
眠れなくなってからも、目覚まし時計は相変わらず毎朝午前6時半に鳴る。それを和室の天井を見ながら聞くのがここ数ヶ月の日課になっていた。数ヶ月前まではこの時間に起きて夫と娘のお弁当を作り、2人を送り出すまでは一息つけないほど忙しかったのだが、と思い出す。
家の中はしんとしている。夫は仕事が忙しいらしく、ここのところ徹夜続きだし、高校3年生の娘は推薦入試で大学に合格したので皆よりちょっと早く春休みが来たらしく、毎日昼過ぎまでは起きてこない。
カーテンを開けた。日が出たばかりで、まだ目の前のアパートに太陽は隠れていたが、空が赤く色づいていた。雲もあまりないので、今日は晴れだろう。窓を開けてベランダに出る。パジャマにサンダルという格好には厳しい寒さが鼻の奥をツンとさせる。一度部屋に戻ってフリース素材の上着と靴下を履いてからもう一度ベランダに出た。マンションの6階からは目の前のアパートと近くの大型スーパーと空が見える。このマンションの一室を買った時にはアパートもスーパーもなくて空が一面見渡せたのだが。それがこの部屋を買った一番の理由なのにな、と少し寂しく思う。
空から赤が徐々に消えていく様子をしばらく見ていた。思えば、考え事をする時、悩んでいる時、大事な決断をする時、いつも空を見上げていた気がする。初めての受験で不安でたまらなかった高校受験の前日も。将来何がしたいのかわからず、志望大学が決まらなくて毎日悩んでいた高校2年生の冬も。今の夫に初めて自分から告白すると決めた日も。就職活動がうまく行かず悲観的になっていた大学4年生の時も。結婚式の日も。職場で上司と険悪になり仕事を辞める前日も。待望の娘が生まれたのに娘なんていらないと心から思った産後うつのあの日も。
そして今日も。
私は空を見上げている。
見上げればいつも月が、太陽が、雲が、星が、雲間から見える光が、ただそこにあった。私が悩んでいることをつゆほども知らず、ただただ存在していた。それを見ているとだんだん自分が何を考えていたかを忘れ、空を見ることに集中してしまう。
きっと世界が終わる時もこんな感じなんだろうな。
世界が、地球が、宇宙が滅びる時でもきっと空は青く、赤く、灰色でいつもと変わらず雲が流れ、相も変わらず美しいのだろう。そう考えるとどこかでほっとしている自分がいた。きっと自分が今からしようとしていることなど取るに足らないことなのだ、夜空に星が流れるくらい、いや、空にひつじぐもがあるくらいなんてことない事なのだろう。多分。少なくとも空にとっては。
空はもうすっかり水色になっていた。世界が動き出す音が耳に入ってくる。バイクの音、小学生の声、人が歩く音、車が走る音。
目を覚ました世界に私の居場所はない。
ベランダから部屋に戻り、テレビをつけた。もう7時半も過ぎているので街頭インタビューだったり今流行りのものの特集だったり、星座占いしかやっていなかった。ただ、重要なニュースだろうが、くだらないニュースだろうが、今の自分にはあまり関係がない。最近はテレビを見ても驚くほど内容が入ってこないので、静かな部屋に耐えかねた時に環境音としてつけるくらいしか使っていないからだ。
ああ、さっきベランダから下を見るのを忘れたな。
本当はそうするためにベランダに出たのだ、空を見るためではなく。6階と屋上では全く景色も違うだろうが、なんとなくそこにいく前に世界を見下ろした感じを知っておきたかった。もう一度ベランダに出る気力もないのでリビングのテーブルの上によじ登った。テーブルの端からぴょんと降りてみる。最近運動していなかったからか、結構膝にきた。もう一度降りてみる。今度は膝の屈伸を使ってみた。さっきよりはましかもしれない。でも、と思う。地面が見えるのは嫌だな、と。痛いのは嫌だし、怖いのも嫌だ。なるべく心の中を他のもので満たせる方法はないだろうか。空、とか。空を見ながら、とか。
まだ自分の布団は和室に敷いてあった。その上で後ろに倒れてみる。一回目は腰が引けて尻餅をつくみたいになってしまった。意外に体をまっすぐにしながら後ろに倒れるのは難しいのだ。体幹と恐怖心に打ち勝つ強い心が要求されるのだ。人生40何年目にして初めて知った。何回かやってみると、だんだん体が真っ直ぐになってきた気がする。客観的に自分を見られないので何とも言えないけれども。
そうこうしている間にかなり時間が経っていたらしい。娘の部屋のドアが開く音がした。時計を見ると10時半だった。いつもより早い目覚めだ。何でも今日は友達に会いに行くらしい。よりによって今日、という気持ちと娘も夫もいない時間が確保できてほっとする気持ちが一瞬心の中でぶつかった。よほど凄い形相だったのだろうか、娘から今日家にいようか、と言われたが、ひらひらと手を振り、彼女のお気に入りのパン屋さんでパンでも買ってくるよ、と約束した。そっか、パン買って帰ってきてね、待ってるから、と言われたが、待っているのは私の方なのではとちらと思った。娘は出かける準備をしだして、パン屋とちょうど方向が同じなので駅まで2人で歩くことにした。道中は他愛のない話をした。彼女のハマっているアニメの話、最近近くにできたパン屋さんが気になっている話。改札に着くと娘はパン買って来てね、約束だからね、と呟くと改札の向こうに消えた。普段はほとんど振り向かないのに今日だけはなぜかこちらを振り向いて0.5秒立ち止まった。そして駅のホームに向かう階段を降りていった。
やれやれ、パンを買うミッションが発生してしまった。今日の昼ごはんはパンか。
娘に向かって手を振りながら、そんなことを必死に考えていた。彼女はもう小さな子供ではない、私がいなくてもきっとやっていけるだろうという考えと彼女は帰宅後、何をして何を考えるのだろうかという考えから目をそらすために。
それからはふらふらとパン屋に行き、ふらふらとパンを買い、近くの公園でパンを食べた。味はほとんど分からなかったが、タマネギがシャキシャキしていて、新鮮なタマネギを使っているあそこのパン屋はやはり信用できることが再確認できた。
同日 午後2時
私は家から30分ほど離れたビルの屋上に来ていた。ここは昔、娘の友達が住んでおり、友達の家で遊んだ娘を迎えに一度だけ来たことがある。その時に屋上に子供が侵入して大騒ぎになった、という話を聞いたが、屋上へ続くドアはいまだに格子ドアで簡単に開けることができた。家から近すぎず、遠すぎないところがいいとは前々から思っていた。知り合いに会わないくらい遠くで、でも自宅と同じ警察署が管轄している地域、にある15階建くらいの建物、と考えると候補は案外すぐに見つかった。その中でも昼間の人通りがあまり多くなく、屋上にも簡単に侵入できるここに決めたのだった。
屋上には何もなかった。その代わり風がかなり強かった。風を体で感じる。昔、夫と船に乗った時のことを思い出した。当時、タイタニックが公開されたばかりで、夫があの有名なシーンを再現しようというので船の先端に2人で行ったのだ。そこに立ったら風が思いのほか強く、2人してしゃがみこんでしまった。後で船頭さんに怒られたし、その日は散々だった。でも次の日朝起きると、指輪を持った夫、当時は恋人だが、が枕元に立っており、寝起き早々プロポーズされたのだった。本当は船の上でロマンチックにする予定だったのだが、タイタニックの名シーン再現を試みたことで予定が狂ってしまったのだ、と言われた。その時の私は真面目な顔の夫を前に涙が出るほど笑った。後にも先にもこんなに笑うことはないのではないか、というくらい笑った。どうかな、と返事を催促されてようやくはい、と笑いながら返事をしたが、この時初めて私は彼に本当に心を許したのだと、今振り返ると思う。
屋上から周囲を見渡した。周りは本当に人通りがなく、清掃のおばさんが一人立っているだけだった。
そろそろかな。
なるべく下を見ないように前だけを見るようにして屋上の縁に向かって歩いた。風にあおられて少しよろけてしまったことに最後までかっこ悪いなとくすっと笑ってしまった。縁にたどり着くと、娘のためのパンが入ったカバンを自分の真横になるべく優しく置いた。そして世界に背を向ける。
先ほどまで遠くに聞こえていた電車の音も鳥の声も車の音も今は何も聞こえなかった。ただ風が通り過ぎる音だけ。
ふと思う。
きっと世界が終わる時も空は青く、真っ白な雲が流れ、光で溢れて、とびきり優しいのだろう。
だから、私が世界と決別する時も。
きっと、きっと今も、
空を仰ぐ。それにつられて体が後ろに傾いた。地面から足が離れる。ふわっと自分の周りに風を感じた。
…ああ、ほら、今日も空はきれいだ。
20xx年 3月1日
マンションの清掃員である美恵子(仮称)は今日もいつもと同じように出勤していた。いつもと違うのは寝不足なことだけだ。昨日、あの後、警察が来て第一発見者である美恵子は事情聴取を受けたのだった。事件性がないかを確認するためとは言え、かなり淡々と事実だけを確認していく作業は少し苦痛だった。事実を答える度になぜ、が頭の中に増殖していくのだ。なぜこの建物を選んだのか、なぜ後ろ向きだったのか、なぜあの時声をかけられなかったのか、なぜ自ら死を選んだのか。警察官は答えを教えてくれる訳ではなかったが、明日遺族の方がマンションの方に来るかもしれませんと伝えられた。事情聴取の後、管理人の鈴木さんから電話であんなことがあったばかりだし事情聴取で疲れただろうから数日休みをとったら、と提案されたにも関わらず、今日も出勤しているのはそれが理由だった。
朝からB棟の近くで掃き掃除ばかりしているのだが、遺族はなかなか来なかった。来なかったのでB棟の方に近づいたのがいけなかったのかもしれない。気がつくと美恵子の目の前には黒っぽくなったシミが広がっていた。昨日、夜に雨が降ったはずなのに、まだそれは存在を主張するかのように残っていた。昨日の記憶が鮮明に浮かび上がってくる。耐えきれずその場にしゃがむと、すいません、という声が聞こえた。
振り向くと美恵子より少し若いくらいの男性と美恵子の息子と同じくらいかもう少し若い女の子がこちらを見つめていた。美恵子は立ち上がるとこんにちは、と声をかけた。彼女の家族だな、というのはすぐに分かった。2人とも花束を持っていたからだ。赤黒いシミを背中で隠しつつ、ご遺族の方ですか、と尋ねた。男性が、そうです、あの、もしよかったら、当時の状況をお聞きしたいのですが...と遠慮がちに切り出した。昨日見たものをそのまま話したが、その間中女の子の方は美恵子の後ろにのぞく赤黒いシミをじっと見ていた。話し終えると、男性と女の子はありがとうございました、花を供えてもいいですか、と言って持っていた花束を地面に置き、両手を合わせた。
なんとなくその様子を見ているのがいたたまれなくなって、美恵子はそう言えば、と口を開いた。
彼女は空に向かって手を伸ばしていました、もしかしたらまだ未練があったのかもしれませんねえ、
そう言うと、2人は目を見開いて美恵子を見つめた。女の子の瞳からは水が溢れそうだった。男性が、お母さんいっつも空見てたもんね、と女の子に向かって言うと女の子は下を向き、赤黒いシミの隣に小さな小さなシミを作った。
美恵子はじゃあ、と言ってその場を立ち去る。男性と女の子はお話、ありがとうございました、とその後ろ姿に向かって声をかけた。美恵子は振り返って頷くと、ポケットの中の電話を取り出した。
「鈴木さん?私やっぱり数日休みます。それから、私やっぱり屋上への扉、変えたほうがいいと思うの。」
電話をしながらふと空を見上げると昨日と同じように今日もまた、晴れだった。
<完>