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かつて天才だった俺はなぜ凡才なのか
「似たような形に整えられて 見る影も無い」ー『かつて天才だった俺たちへ』Creepy Nuts
天才はなぜ天才なのか。秀でた才能があるから?天性の才能があるから?
違う。人と違う何かを持っているからだ。
それを主張し、極めていったから天才は天才なのだ。人が特技としてあげるものは他の人にはできなくて、自分はやってきたことではないか?義務教育で似たような形に整えられた教育内容を特技にはしないだろう。
エジソンは小学校をやめた。「なぜ?」を連発し、先生を困らせたからだ。人が気にもせず、受け入れていってしまう事象を疑い、順応していくことに抗った。天才はそう生まれていくものだ。
天才は凡人に
「苦手だとか怖いとか気付かなければ 俺だってボールと友達になれた 頭が悪いとか思わなけりゃ きっとフェルマーの定理すら解けた」ー『かつて天才だった俺たちへ』Creepy Nuts
天才だった俺は、いろいろなことに気がついてしまう。周りの様子をみて、自分では「計算が得意で、天才だ、フェルマーの定理まで解ける」と思っていても、自分より得意な人間を見つけてしまう。そこで、気がつくのだ、自分は天才ではないことに。そして、他の人と違うことを恐れ、普通という概念に順応していってしまう。ここで、天才は凡人になる。
人は人と比べ、挫折を味わうことによって凡人となる。
他の人と比べて
「得意な事があった事 今じゃもう忘れているのは それを自分より 得意な誰かが居たから」ー『才悩人応援歌』BUMP OF CHICKEN
「なんでいつもあいつばっかみんなに褒められんだ?頭来んなぁ。持って生まれてきたものに差を感じる不公平だ」ー『ネタンデルタール人』 back number
どんなに素晴らしい人間も何度もどこかで小さな挫折をしている。その挫折は、おそらく、自分より他人を見たときに感じることが多い。自分は、あいつにあるものがない。才能に差がある。と思う。そこで、得意なものはもう得意ではなくなる。そこで、終わってしまう。凡人となるのだ。
その打開策を自己啓発本は、教えてくれる。「他人と比較をするな」「比較してもいいことがない」その通りである。
でも、はっきり言おう、無理だ。
どんな局面でも、必ず比較する。競争社会に生まれながらに放り込まれているからだ。
「新自由主義というシステムは競争によって格差を生む。(略)新自由主義が生む熾烈な競争はいとも簡単に人と人を分断する。分断して競争させた方が、経済が盛り上がるからだ。」ー若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(p.323、文春文庫、2020年)
尊重する心
競争する世の中に置かれ、比較し続ける、妬む、羨む、僻む。これはしょうがない。でも、絶対にやってはいけないことはある。
相手の否定だ。
「妬ましいから、あいつを貶めてやろう。」「あいつは、自分より幸せそうだから、こんな報いを受けるべきだ。」
そこで相手を傷つける。なにが救われたのだろうか?自分の自尊心だろうか?うまくいってた人間が堕ちていく姿は楽しいのか?特に日本人はとにかく失脚が好きだ。好感度高い有名人が、騒動を起こす。「失望した」「がっかりした」「報いを受けろ」などとと叩けるだけ叩く。地位の高い人間が堕ちていく姿を見て、自分の地位が上がったと錯覚する。それで悦に浸る。
仕方のないことなのだろうか。
競争社会のせいだろうか。競争社会のせいで、社会は否定であふれるのか。
それは違うと信じたい。そんな冷たい世界ではない。と思いたい。
では、凡人な俺はこの妬みをどう処理し、どう生きればいいのか。
時が来たらかませ
「俺らは大器晩成 時が来たらかませ」
ー『かつて天才だった俺たちへ』Creepy Nuts
「僕は僕の歌しか歌えないよ だから僕を磨いていくしかないだろうやる事全部全部やってしてないって顔してやろう そしたらもう 妬んでるだけの 時間を終わりにしよう」
ー『ネタンデルタール人』back number
「僕が歌う 僕のための ラララ
君が歌う 君のための ラララ」
ー『才悩人応援歌』BUMP OF CHICKEN
凡才だと気付いたっていいじゃないか。
誰だって、かつて天才であった。その可能性はまだ死んじゃいない、自分の秘めた可能性を信じ、自分を磨き、自分の歌を歌い続け、いつかかましてやろうと野望を持ち続けたい。
誰もやってない、人が真似できないようなこと、ものは案外近くにある。くだらないとみんなが吐き捨てたものだって極めたら、それは自分だけの特技になる。それをみんなが認め合う。そうすれば、厳しい新自由主義の競争社会の中にも、温かい理想郷が築かれるのではないか。
なんてね、わかっています。こんな理想論無理だとは。夢物語だとは。現実は辛く厳しい。とかく、この世の中は生き辛い。そんな世の中の生き方を若林さんは教えてくれる。
生き辛い世の中で
「新自由主義と資本主義の中で生きていくことは、格差と分断の中で生きていくことだから基本的にはずっと生き辛い。時に資本主義の外的価値に心を乗っ取られ、時に血が通った関係と没頭によってそれを打破する。それを繰り返していくしか無いのだろう。」ー若林正恭『表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬』(p.334、文春文庫、2020年)
若林さんの言う通り、血が通った関係と没頭を楽しみながら生きていくしかないのでしょう。
でも、若林さん、新自由主義の中でも分断を生まない発展はできませんかね。みんなでかましてやりませんか?