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ソフトフォーカス画像からの刺激


 自分が、何故ソフトフォーカスの写真に惹かれるのか考えてみた。

 被写体の内側から放たれた光が淡く世界にとけるような、それでいて世界のあるあらゆる光が柔らかく被写体を包んでいるような、曖昧。にじんで見える光は霧のようでもあり、そこにだけある特別な水分のようなものまで感じてしまう。気のせいだろうか。

 自分はソフトフォーカスの写真から何を得ているんだろう。もっと何かあるはず。

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 フォーカスとは、焦点(ピント)を合わせるまでの距離を含んだ言葉だと思ってる。焦点という言葉には含まれない「時間」がそこにはある。

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 ソフトフォーカス(軟焦点)であるという、意図的に世界をはっきりさせない表現。その中に私が見るものは写真から得る情報プラスアルファのもの。自分の記憶や感情やイメージがぼんやりとそこにのって、懐かしさが染み出た写真を見る感覚。写真の中に設けられた「はっきりさせない」部分、あそびの部分には自分の emotional な特別なフィルターを差し込める許容があるのではないか。


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(すべてソフトフォーカス。どれもピントは Canon の「 C 」に当てる。効果が強いほど、見る人の何かを受け入れる許容が大きくなる気がする。3枚目はカメラ機能+ソフトフィルター使用)


 被写体と一緒に写り込んだ世界の間にある曖昧な光の境界は、自分と写真との境界も曖昧にする。焦点は、見る者それぞれに預けられているんじゃないか。

 写真から少し離れて、光のとけだした場所から自分のハートまでの距離を行ったり来たり。近づいて、写し出された1枚の中で時間をかけて曖昧な境界を行ったり来たり。

 心のフィルターと自由なフォーカスで、写真は見る人の特別な一枚になりうる。ソフトフォーカスの画像はどれもそんな隠された余力を持った器だ。見る人を受け入れる包容力がある。

 そこはきっと好きなものを入れていい場所だ。

 柔らかで曖昧な視覚効果はいつも自分の内的感覚を刺激する。


 世界を照らす光と被写体から放たれる光が出会って溶けあう場所。そこから見る人の数だけ特別な物語が紡ぎ出される。

 たぶん。




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