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手を放す 満ちてゆく


0. 自分自身を分霊すること


私自身、誰かに何かを教えることや伝えることが好きだ。
それは、その内容が相手の中で生き続けるような感覚をもつからだ。
自分がたとえいなくなっても、誰かの中に、自分が生きた痕跡が分霊的に残っていくような気がしている。
このnoteもまた分霊の1つかもしれない。


1. 手を放す 満ちてゆく


紅白で藤井風の「満ちてゆく」を観た。
曲自体は何回か聴いたことがあったが、歌詞をじっくりとなぞってはいなかった。

手を放す 軽くなる 満ちてゆく

藤井風「満ちてゆく」

歌詞を一通り眺め、MVも観れば、死にゆくときを描いた曲だとわかる。

だが、ここで歌われているのは、1つの人生が終わるその瞬間のことだけではない。
そこには「ものを持つこと/ 手放すこと」という、もっと日常的で、私たちの生活に結びつく価値観が表現されていると感じた。

手にした瞬間に 無くなる喜び
そんなものばかり追いかけていては
無駄にしてた “愛”という言葉

藤井風「満ちてゆく」

私たちは普段、ものを買ったときや何かを手に入れたときに満足感を得る。
でも、あれだけ欲しかったものがいざ自分のものになると、途端に興味を失ってしまうことがある。
ものを手にいれることに価値をおくのでは虚しい。
それでは「愛」すらも「無駄」になってしまう。

だからむしろ、手放すことで自分が満たされていくことを考えようと歌うのだ。


紅白での演出には感動した。
バッグを置き、お金を投げ入れ、マフラーを少年に与える。
何かを手放して軽くなった彼はゆっくりと上昇していく。
そして、建物の屋上へ上がると、ニューヨークの摩天楼が映る。
朝日が眩しく当たる対岸の風景を背後に、陰になった屋上で彼はひっそりと倒れる。

摩天楼は物質主義の象徴のような存在に見えた。
そこに朝日が眩しく当たる。
多くの人々がそんな物質主義が広がる世界の中にいるようだ。
その川の対岸に彼はいる。
そして陰の中で人知れず「満ちてゆく」。
この対比が見事だと思った。
ニューヨークの、あの場所、あの時間で表現する意味を感じた。


2.所有するとは手放すこと


ニュー・ギニア諸島にクラと呼ばれる交易がある。

ポーランドの人類学者B・マリノフスキは、1917年から1918年にかけて、クラを行っている住民たちの中に飛び込んで調査を行い、『西太平洋の遠洋航海者』としてまとめた。

クラは赤い首飾り〈ソウラヴァ〉と白い腕輪〈ムワリ〉が海を超えて、多くの島々の人々の手を渡りながら1周するというものだ。

〈ソウラヴァ〉と〈ムワリ〉を次の所有者に渡すと、時間をおいて必ず等価の品物が返されることになっている。

それが行われる背景として、マリノフスキは次のように述べる。

すべての人類と同様、クラの人々も所有することを好み、したがって獲得することを願い、失うことを嫌うけれども、ギヴ・アンド・テイクに関する諸規定という社会的な掟が、彼らの生来の利欲的傾向よりはるかに強い力を発揮しているのである。(略)重要な点は、彼らにとって、所有するとは与えることだという点である。

B・マリノフスキ『西太平洋の遠洋航海者』1922
(抄訳 増田義郎、講談社学術文庫、2010)

続けてマリノフスキは、この「社会的な掟」にも、与えることで目立ちたいという思いがあったり、気前がいいと多くの品物が流れ込んできたりするといった利己的な側面があることも指摘している。

しかし、手放すことで(物質的であれ精神的であれ)満たされていくことは、物質主義的ではなく、同時に個人主義的ではなく、他者との関係の中で自分がかたちづくられるような価値観をうむ。



「所有するとは与えること」という一見矛盾する命題の中に、自分とは異なる存在と社会をつくる人間の生き方のヒントがあるように思う。

そして、藤井風はそのことを繊細に、美しく、優しく、それでも力強く「手を放す 満ちてゆく」と歌っているのだ。


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