無意味を愛するということ
薬物だ〜いすきだ。だってなんの意味もないから。薬物なんて何にも意味ない。体に入れたら世界を知ったような気になれるこれも、ご飯が美味しくなるあれも、ぐっすり眠れるそれも、なんだって全部意味が無いのだ。
人生には意味の無いものもたまには必要だ。無駄があるからこそ必要なものに気づける。キャンバスに無駄な余白があるからこそ美しいと思える絵がある。薬物は余白なんだろう。人生のありがたさを知るために、必要不可欠な無駄なんだろう。無駄なのに必要不可欠というなんておかしな話だと思う?でも私は、この世にある薬物は、誰かにとっては全く無意味なものでもあるし、はたまた誰かにとっては地獄に垂らされている蜘蛛の糸ぐらい命綱になる必要不可欠なものだと思うのだ。
私には高校2年生から3年生にかけての記憶があまりない。なぜかっていうと、めちゃくちゃODしまくってたからだ。ODというのはオーバードーズの訳で、薬を大量に飲むことを指す。私は今思えばヤブ医者なんじゃないかという精神科医に、高校生にしては強すぎる眠剤を多剤多量に処方されていた。Twitterで病み垢なんかを作って一丁前にメンヘラ気取りだった私は、睡眠薬をザラザラ胃の中に流し込むことにアイデンティティを覚え始めた。それまでは品行方正、至極真面目な優等生だったのに、睡眠薬と酒を飲んで夜中に大声で歌って隣から怒鳴られるような高校生になってしまった。
本当に断片的にしかあの頃の記憶が無いのだ。眠剤を1シートぐらい飲んで動物園に行った思い出はある。舌を真っ青にして満面の笑みで自撮りを撮った思い出もある。すり鉢がないからトンカチで薬を潰してラインを引いた思い出もある。眠剤を飲んで気が大きくなって大好きな人に「頼むから嫌わないで」的なメッセージを送った思い出もある。でも全部それは断片的な思い出でしかなくて、点と点はいつまで経っても繋がらなくて、私の高校生時代の思い出は全くバラバラに散らばったままなのだ。
大好きな、本当に大好きなラッパーがいる。私が大好きなラッパーは2人とも亡くなっている。大好きなラッパーのうち1人の死因はODだ。大好きなラッパーのうちのもう1人は、亡くなる前にInstagramにODをしたという文章とともに泣きながら話す様子の動画を載せている。彼女がODしたのは、私も処方されたことのある薬だった。
私は時々亡くなった大好きな2人のラッパーが、近い自分の将来ではないかと思うのだ。私はODをする人は全員が全員死にたい訳じゃないと思う。私だってODするとき、毎回毎回死にたくてやってる訳じゃない。今の現実がどうしようもなく辛かったり、つまらなかったり、全部が無駄に思えたりしたとき、机の上に転がる錠剤たちが私にとっては地獄で光るたった一つの蜘蛛の糸なのだ。それに縋る思いで、何錠も何錠も錠剤を流し込むのだ。薬自体にも、ODにも、何の意味もない。ODしたところでただの現実逃避で、何の解決策にもならない。わかっているけどしてしまう。わかっているけど逃れられない。安直で陳腐なODという現実逃避の方法に、私はきっと依存しているんだと思う。そしてその現実逃避を繰り返しているうちに、いつか本当に弾みで死んでしまうような未来も、無くはないんだと思う。
私が大好きなラッパーたちは死にたかったんだろうか。私はODをすると人生に区切りをつけられるような気がする。非現実的な酩酊感、多幸感、そして時に酷く現実に引き戻される離脱を経て、今までの人生に栞を挟んだような気分になれるのだ。栞を挟んでもまた本を開けば物語は続くのと同じで、ODだってまた薬が抜ければ元の日常が始まる。大好きなラッパーたちは、人生にちょっとした小休止を挟みたかっただけなんじゃないか。少し休むつもりのためのODだったのが、不幸が重なって、人生に幕を下ろすことになってしまったんじゃないだろうか。
いつもODする度に「ちゃんと帰って来れますように」と願う。自分を終わらせたくないからだ。でも弾みで死んでしまう可能性があることも知っている。知っているけど薬を飲んでしまう。私はどこかで死ぬことを期待してるんだろうか。わからない。何の意味もない薬物とも、何の意味もないODという行為とも、私はまだまだ縁が切れそうにない。この全くつまらない行為に、私は酷く魅了されている。