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他人の目を気にせずにはいられない。

朝目覚めて、煙草を吹かしながら「今日もまた退屈な一日が始まるなあ。」と寝ぼけまなこで考えているときだって、私は「今の自分は他人の目にどうやって映っているんだろう。」と考える。
狭いワンルームのアパートで1人踊ったり歌ったりしてるときだって、「VTRでご覧の皆さん!お元気ですか!」という気持ちを込めて大好きな音楽に身体を揺らしている。
満員電車でガタゴトガタゴト揺られているときだって、「鼻毛出てないかな。」なんてつまらないことを考えながら、私は他人の瞳に映る自分の姿を想像している。誰も私の日常なんて見ていないのに、私は毎日その他大勢の多数が私の人生をモニタリングしていると思いながら振舞うことがある。

他人の目を気にしてばかりの人生を過ごしている。「この人の目には私はどんな風に映っているんだろう。」と思いながら一言一句発する時間はとても窮屈で、あるべき自分とありたい自分の色んな姿を同時に考えながら話すせいで、勢い余って思いもしないことなんか言ってしまい、自分の発言を後悔して失敗することが多い。

他人の顔色は不思議なもので伺えば伺うほどわからなくなるものだ。どれだけ他人をじっと見つめたところで、私はエスパーなんかじゃないからその人の考えを読むことはできない。しかも最悪なことに、他人の顔色を伺えば伺うほど自分自身の姿が見えなくなっていく。自分自身がどうありたいか、どう過ごしたいか、他人の顔を伺って生きてきた結果、私は自分らしさを見失ってしまう。

他人の目を気にして生きてきた約4半世紀の人生を回顧して、私は随分無駄なことをしてしまったなと思う。みんなに好かれたいと思っていたあの頃に思い浮かんでいたみんなの半数以上ともう連絡も取れないし取ろうとも思わない。未だに他人が自分をどう思うか気にする毎日だけれど、頭の片隅では自分の周りにいる人々なんて流動的なもので、その有象無象に私の毎日を「ご覧あれ!」と披露しているようじゃ、全く誰のための人生なのかわからないと思っている。

これを書いている今も私は部屋の片隅の監視カメラから自分の人生が全世界に中継されていたら……とトゥルーマン・ショーのような想像をついしてしまう。他人の目を排除して自分の人生を生きられたとき、私は今の閉塞した日常から脱する事ができるような気がする。壁中に巡らされた知らない人達の目を全て残らず潰してしまいたい。その一方で、その目なしでは自分はどうなってしまうんだろうと恐れている私は、なんてくだらないんだろう。

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