酒色に溺れるな!!!!

 「現代語訳 学問のすすめ」を読んでいる。明治維新前後の日本の伝統的な価値観が垣間見える文章を紹介する。私としては、「酒色に溺れる青年を大目に見る」、という文化は良くないと思う。青年はやがて中年、老人になるが、その価値観のまま中年、老後を生活するからだ。青年ならまだしも、中年、老人の国会議員が、パパ活、買春に手を伸ばすことに嫌悪感を抱くものは多いだろう。酒色に溺れることを大目に見る文化の為に、酷い場合には12歳に性的暴行をする維新の会所属元衆議院議員(58)が発生してしまうのだ。

 下記に引用する。

たとえば、ここに沈湎冒色・放蕩無頼(酒色におぼれ、手に負えぬ道楽者)の青年がいたとする。彼を正しい方向に導くのには、どうしたらよいか。一人前の人間にするためには、まず飲酒を禁じ、女遊びをやめさせることだ。その次に、それ相応の生業に就かせることである。飲酒と女遊びを禁じないうちは、彼の仕事の問題など二の次だからである。
他方、酒も飲まず、遊びもしない人間が、道徳的に正しい人物だとも考えられない。彼はただ、世に害をおよぼさぬ人間にすぎないからである。ともあれ右の道楽者が、もし酒も女遊びもやめて、まじめな仕事に就いて身持ちを慎み、家業を助けるようになれば、それこそ一人前の人間といえるであろう。
自分で独立するという理屈も同じである。ところが、士族より上の者は、数百年来の習慣に染まり、生活とはどういうものかも理解せず、富がどうやって得られるかも知らず、大きな顔をして、ただ飯を食い、その日常を当然の権利と思っている。そのありさまは、まるで前述の酒色にふけり物事の道理を忘れた者と同様である。

「現代語訳 学問のすすめ」P136,137

 福沢は青年が酒色に溺れることは大目に見ていたようだ。この言論が、現代日本に蔓延る実質違法な性風俗産業の存続、性加害事件の諸悪の根源ではなかろうか。であれば福沢の言論を否定しなければならない時が来たと言える。日本政府はジェンダー平等の為に血税を投入しているのだから、やるなら徹底的にやらなければならない。国民への背任行為に当たるからだ。
 明治維新後に書かれた「学問のすすめ」において、福沢は孔子や孟子さえバッサリと否定した。従って、私も同様に福沢の価値観をバッサリと否定して良いのだ。
 「酒色に溺れる青年を非難せよ!」だ。とは言いつつ、私も酒色に溺れた。私はまだ青年なので大目に見て貰いたい。私が最後の酒色に溺れることを大目に見られた青年になるのかもしれない。

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