飛田新地料理組合が社会に刷り込むジェンダーバイアス!
プロローグ
またもや飛田新地料理組合についてだ。私は飛田新地料理組合の存在を知る前に、西成近傍へ大学時代友人と足を運んだことがある程度であり実際に飛田新地界隈を歩いたことはない。今思えば、友人は飛田新地のことを知っていたのだろう。多分その地域に近づいた時、友人らはなんだかソワソワしていたような。そこ通るの?通らないの?行くの?行かないの?的な感じであった。純粋だった私は西成の自販機で販売される飲み物の値段が安いな、なんて思うくらいだった。ちなみに、その友人らとは東京浅草にも行った。そのとき西成を訪れたときに似たような友人らのソワソワ感を感じた。浅草から歩いて行ける場所に、かの有名な樋口一葉作「たけくらべ」の舞台となった吉原遊郭があったのだ。これも結局は訪れてはいないが。
従って飛田新地に関する私の持論の起源は全てネット空間で収集した情報に基づく。今から私は実際に行ったことない場所に関して偉そうに議論するのだ。そして行った事ない癖に、まるで行ったことがあるかのような口ぶりで議論するのだ。余所者が偉そうに。と言われても仕方ない。であるが余所者がヤイヤイ言うことで何らかの化学反応が起きることもあるのだ。目に見えない嘆きの壁に阻まれ廓の中に押し込まれている現代の娼妓らと私との間に化学反応が起こる可能性すらあるのだ。
ジェンダーバイアスとは
男性はこうあるべき、女性はこうあるべき、という社会による刷り込みをジェンダーバイアスという。ジェンダーバイアスは、例えば、女性は専業主婦になるべきで、家事育児料理に時間を捧げるべきだ、とか、女性は理系ではなく文系が向いている、とか、男は一家の大黒柱として長時間労働に耐えなけれならない、というような思い込みである。
ジェンダーバイアスを社会に刷り込む飛田新地料理組合
ジェンダーバイアスは、男女問わず人を苦しめる可能性があるが、そんなバイアスを撒き散らす団体がある。安倍氏国葬時、日本国旗を掲揚して弔意を示した飛田新地料理組合である。具体的に考える。
飛田新地料理組合の店員、女ばかり
飛田新地料理組合に属する料亭の店員はすべからく女である。これは悪質なジェンダーバイアスである。料亭の店員は男であってもいいはずだ。男が玄関に座って笑顔で手を振ってもいいはずだ。女でなければならない理由などある訳無い。飛田新地料理組合のお偉いさん方は、料亭の店員、すなわち料理を運ぶ者は女でなければならない、と主張しているのだ。これは世の中の潮流に反して、女の役割を固定化するジェンダーバイアスを撒き散らしていることになる。安倍氏国葬時に国旗掲揚している暇があるのなら、一刻も早く男の店員を雇い、世間にジェンダー平等の意識を表明すべきだ。
顧客にとってのジェンダーバイアス
飛田新地料理組合では玄関に座る女性に惹かれると、料亭に上がるということになる。始まりは男であるのだが、2階に上がったあと気分が下がる男も居るかも知れない。にも関わらず、女性が抱いて!という雰囲気を醸し出すと、男は抱かなければならないらしい。「据え膳食わぬは男の恥」のジェンダーバイアスが発揮されるのだ。こんなケースもあるかもしれない。友人と飛田新地に向かう場合、友人に合わせるようにして自らも料亭に上がっていくという場合だ。これも「据え膳食わぬは男の恥」というジェンダーバイアスが発揮されているのかもしれない。
エピローグ
飛田新地料理組合についてジェンダーバイアスの面から考察した。他にも、娼妓に労働安全衛生法は適用されるのか?や待機時間に賃金は発生するのか?などの切り口もあるのではないか。彼らは自由恋愛だからオッケーと主張するが、別の視点から見れば全然アウトな場合もあるのではないか。
顧客にとってのジェンダーバイアスでは、「据え膳食わぬは男の恥」というワードが出た。我ながら偏った考えを書いてるなと思ったが修正する気力がないのでこのままにしておく。「据え膳食わぬは男の恥」。これが性教育とやらをマトモに受けていない者の認識なのである。こんな状況になったのも、飛田新地の実態を隠蔽しながら性教育の実施を拒んできた保守のせいではないだろうか。なぜ保守が性教育を拒むのか?保守とお友達である飛田新地といった売春宿の存在に言及されたくなかったからではないだろうか。