資本主義的恋愛との決別。

 我々西側諸国に住まうヒトは否が応でも資本主義のルールに乗っ取った社会生活を営むように調教されている。昨今、このシステムが行き過ぎており、我々の生物らしさが失われている。我々は生物としてのヒトが自然に行う恋愛、性行為というものを貨幣に換算してしまったのである。これによって、我々は一層、独立した生物ではなく、誰かの労働奴隷、性奴隷の地位に甘んじることになるのだ。
 我々は資本主義的恋愛と決別しなければならない。資本主義的恋愛とは、型にハマった恋愛である。例えば、お見合い、マッチングアプリ、学校、職場での恋愛だ。我々はこのような型にハマった恋愛と決別しなければならない。お見合い、マッチングアプリは労働奴隷、性奴隷を再生産する為の効率的な手段として商業化された。数々の恋愛漫画は、学校、職場を恋愛の主戦場たらしめた。たが、これらの恋愛の型が我々を幸せにしたことがあるだろうか?否。ないのである。誰しも学校で恋愛漫画のような恋をしたいのだが、現実は甘くない。一方で、我々は忙しそうにする可愛いマクド店員には、「ハッピーセット1つください。」などという定型文のみしか語りかけることが許されないのだ。資本主義が恋愛の発展を阻害するのである。
 資本主義的恋愛は我々を苦しめうるのだ。我々は恋愛を資本主義から解放すべきだ。
 我は資本主義的恋愛と決別せんとし、生物として自然な恋愛を実践せんとする。
 具体的には、街で気になった女の子やマクドで働く女の子に話しかける、である。定型文のみが許された社会の一体何が面白いというのだろうか。さらに、これを迷惑防止条例違反などと言って庶民を威嚇しすぎる警察はどういったつもりなのだろうか。この現象は警察が遊郭における妓楼の楼主、女衒と癒着し、彼らに特権を与えているようにしか見えないのである。女を売り買いする女衒のやりたい放題の状況である。
 我、この状況を憂いている。我、日本の伝統的な性的人身売買業者たる妓楼の楼主、女衒の商いを破壊せんとす。つまり、令和に跋扈するバニラカー、ホスト、及び時に同級生、時にバイト先の同僚等、一般人の仮面を被った性的人身売買業者の商いを破壊せんとす。たとえ、日本の伝統的な性的人身売買業者の親玉が、皇室、政治家、警察、公務員、芸能界の大物、経団連所属のメディアであったとしても、である。
 我、健全なナンパの形を実践し、性的人身売買業者を駆逐するのである。

 1860年代幕末期に日本の将来を憂いた志士が駆け巡り志半ばに死んだ、河原町、木屋町界隈を徘徊するアラサーがここに記す。

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