EP"AMUSE YA" - オーデ・ショー
2024年7月8日にリリースした「AMUSE YA」
その中から自身が作詞した楽曲のセルフライナーノーツを更新していこうと思います!
track4 [オーデ・ショー]
ハウメニィ?さあ索敵だ
積み上げた日々は敵じゃない
アユレディ?さあ幕開けだ
無名だってなんだ 唯御見逸れ
産まれ落ちた場所は
選べずにここにいるのに
産まれ落ちた意義を
見つけるの自分自身だったの
BestRightだなこのAnswer
嘘ついてつくため息"はあ…"
嗚呼want to be 善い人 ワガママ
汚れつけたのは とれないまんま
なんでだっけってのは愛していたの♡
射抜く理由探すのはもう辞めた
重ね続けたリテイクに意味はあるの?
誰もが目指す 魅惑のEau de Show
シナリオ通りの決め台詞
聞き飽きたようなコレでいいんでしょ
間違いのない 卑屈なOwn This Show
魅せて ここで涙の一雫
落ちてく底でオーデ・ショー
産まれ落ちた場所で
取り留めも無いまま彷徨うの
産まれ落ちた意義で
救い出して騙しここにいたいよ
いつ頃知ったっけ?
愛を確かめるこのaction
「秘密だよ、あの日のこと」
悲しいのはまだ癒えないけど
愛していたのってのもバカみたい
試して試されてってもう辞めだ
何が正しい?今ここで
Crowd and me de まちがえさがし
A to Z 誰かの常識でカテゴライズを
正しいこと言わなくちゃ
誰彼も満たされない
誰もが目指す 魅惑のEau de Show
シナリオ通りの決め台詞
聞き飽きたようなコレがいいんでしょ
間違いのない 卑屈なOwn This Show
魅せてあげる 涙の一雫
落ちてくそこで魅せるオーデ・ショー
光のない奈落の底 ずっと戦ってきたの
快楽よりも確かなものが欲しいだけ
"もう一度"はない
ただ今摑めAMUSE YA
よく「もう誕生日も嬉しくない年だから」と言うのは程よく年齢を重ねてきた方からよく耳にする言葉ですよね。
活動年月もなんとなく共通するものがあると私は思っていて、重ねれば重ねるほど何だか不自由になる気がする時もあるし、「もうこんなに続けてきたのにまだこれか〜」と自分自身の思い描く姿と今の自分の差にがっくしくることもよくあります。
例えばステージ前にとっても緊張してしまう時。
その緊張の理由を噛み砕くと「よく見られたい」みたいな気持ちが主な成分なんですけど、それはこれまでたくさんライブしてきた日々の積み重ねの記憶がプレッシャーになっていたりすると思っていて。
「積み上げた日々は敵じゃない」と言うのは"プレッシャーなんて感じる必要なんてないよ"ってな励ましの意味を込めていますが、最初は「積み上げた日々、味方じゃない」としてました。だって積み上げた日々、緊張させてくるし・・・。
昔から私を知ってくれている人の中で、「今のMaNaMaNaという活動が一番好き!」という人は何人いるんだろうか、とたまに考えたりもします。その中で、「これまでの活動全部合わせた自分のベストアクトってなんだろう」と考えたときに、とあるライブが思い浮かぶのですが、未だそれを越えられたな〜という感覚は得ていなくて。その度に技術的に、とか色々その時から成長しているはずだしそのための努力も怠っていないはずなのに何故か越えられたなんて思えなくて、たまにその動画を見返しては「あと何が足りない?」と思考の渦に迷い込んでしまいます。
(「今を見てくれている・共に過ごしてくれている人」が最重要でとても大切なので、そればっかり考えているわけではないよ)
産まれ落ちた場所は選べずにここにいるのに
産まれ落ちた意義を見つけるの自分自身だったの
この曲の中での「産まれ落ちた場所」というのは、環境とかそういうものではなく、人の身体・肉体のことを意味します。身体・肉体は入れ物、という解釈です。これはマナマナが普段そう考えているかどうかは別として、この曲の中での定義です。人は容姿・声質・性別などまるっと含めて自分の肉体を選択することができない、ということが言いたい。入れ物は選べないけど、その選べなかった”産まれ落ちた場所”でどうやって生きていくかを自らで選択して生きていかなければならない。その選択の中で"産まれ落ちた場所"=入れ物が壁となって立ちはだかることもあるよねって感じです。
嗚呼 want to be 善い人 ワガママ
私はこれまでめちゃくちゃ「良い人でありたい」と思っていました。でも、良い人って結局何?みんなに優しいこと?正しいことを言うこと?ルールや約束を守ること?親や先生、偉い人、上司、あなたの言うことを聞くこと?わからなくなって投げやりになってしまっても、やっぱりその願いは拭えなくて、自分の根底にずっとあった。ある時、「この願いってとてつもなくわがままかも」と思う瞬間がありました。私が良い人でありたいと願うのは、誰からも愛されたいってことで、それってめちゃくちゃ強欲やん!って。
でも最近は少しその気持ちは薄れてきたというか若干の諦めがついてきて、「この時めっちゃ良い人だった」とか局地的なことでもいいかなと思うようになりました。そうすると、自分の譲りたくない信念みたいなものも守れるようになったし、そういう自分の大切なものを守れないなら良い人でいられなくてもいいかな、と思えるようになりました。元々我慢強いタイプじゃないし、嘘をついて信念を曲げて色々とやっても結局周りに迷惑をかけてしまって「良い人でいるつもりだったのに無理だった!」って自己嫌悪に陥る、みたいな感じだったので、「すいません無理です」ってハッキリNoを言えるようになって、かなりストレスフリーに生きられるようになりました。
いつ頃知ったっけ?愛を確かめるこのaction
「人間の本能」みたいなものってあるけど、あれってどうなんだろう?
とてつもなく誰かを好きになってその人とその先の関係を望んだり、それって本能なの?何の知識もなく何の学習してこなかったとしても、本能でその先を望むのかな?
男の子は車や電車のおもちゃ、女の子は人形遊び、色だと男の子は青、女の子はピンクとか・・・。誰からも何も与えられずにいても、多くの人はそれを選ぶの?
私は最近こういうことを考えていて、その中で自分の本能、すなわち”自分のマジ”を知りたいと常に思っている。だから大好物だと思うものを食べている時も「私、マジでこれ美味しいと思ってますか?」と自分に問いかけている。
本能はあるにせよ、"知ってしまったから"それを望む、みたいなことはきっとあるだろうな〜。
何が正しい?今ここで Crowd and me de まちがえさがし
正しいこと言わなくちゃ誰彼も満たされない
「正しいこと」って、その場にいた過半数から評価されたものだなと思います
超間違ってて悪いことしててもそれに大層な理由があってついでにそれが涙を誘うような理由があれば「すごい可哀想じゃん、それなら仕方ないよ」って誰かがポストして、それにいいねがすごいついてたら悪行も正しく見えるし。
だから自分の善悪なんて大衆からしたらあんまり意味ない。
「まちがえさがし」は正しい日本語なら「まちがいさがし」なのかなと思いますが、間違った表記を使っているのはそういう意図を込めています。
誰もが目指す魅惑のEau de Show
シナリオ通りの決め台詞 聞き飽きたようなコレがいいんでしょ?
Eau de とは水で薄めたという意味があります。だからEau de Showとは水で薄めたショーということになります。この間中学校の同級生と話してた時にドラマの話になって、彼女が好きだというドラマのどこがおすすめなの?と聞いたら「そうそう、これこれ!夏の恋愛ドラマはこういうのでいいんだよ!って感じなの、私はこういうお決まりのやつを待ってたの」と言っていてそれがなんかおかしくてめっちゃ笑っちゃったんですが、まさにこの歌詞の通りだな〜とそのあとぼんやり思ったりしました。"みんなが好き"って思うものってどこか共通点があって、ドラマでの愛の告白も、奇を衒わないお決まりのやつがみんな欲しい!歌詞だと何だかちょっと否定的に聞こえちゃうかもですが、そこまで否定的な感じではないです。
歌詞を書く時にも考えて煮詰まった私の考えを程よく薄めて聴きやすくする、みたいなことをやってるつもりで、水で薄めるというのは悪いことではないと思ってます。
光のない奈落の底 ずっと戦ってきたの
快楽よりも確かなものが欲しいだけ
これは少し前の話の「いい人」の議題に戻るのですが、「いい人でなくてもいいや」と思えたのは本当に最近の話で、初めてそう思って行動に移した時に一番大切にしたいと思えたのが「MaNaMaNa、そして林奈緒美として戦ってきた日々」でした。でも、その戦いの全ては私にしか見えないものなんだろうとも思いました。見えなくとも戦ってきた。この先その選択を後悔するかしないかは分かりませんが、でも、私はどんなにみんなに間違っていると言われても、自分の信念を通して選んだその行動と選択には意味があったと思いました。人はきっと、ずっと何かと戦っています。その全てを誰しもが見ることは出来ませんが、皆さんが何かの選択をした後に胸を張って「私は私が正しいと思っている、だってずっと戦ってきた自分を信じてこの道を選んだんだから」と言えればいいなと思います。
"もう一度"はない ただ今掴め AMUSE YA
アルバムタイトル「AMUSE YA」には「たとえピエロになっても人を楽しませたい」、そういった意味を込めています。Eau de な言葉ですが「今日という日は二度と来ません」。その日その場所で私はその場所にいる人をAMUSE YA(楽しませる)したい!